ねぐせとすっぴん

ねぐせとすっぴん

24-01の「さっつーアンソロ!」に掲載されたやつです。20になったばっかりのささとぼが18きっぷで旅行して怪レい感じになる的話。

 貸し切りにした座敷の向こう側で、司会者が乾杯のあいさつをしている。懐かしい(らしい)クラスの思い出話に周りが楽しそうにヤジを飛ばす中、わたしはテーブルの端で小さくなっていた。

 どうして、高校の同窓会なんて場違いなところにのこのこと出てきてしまったんだろう。後悔がもたもたと鎌首をもたげてくる。最初に喜多ちゃんから今日の話を聞いたとき、反射的に口をついて出そうになった断りの言葉を飲み込まなければよかった。そうしたら、こんな針のむしろに座るような気分にはならなかっただろうし……やっぱり、一番初めに浮かんだ直感――「行きたくない」という気持ち――の通りにすればよかった。どうせ、行ったって思い出話の輪には入れないし、せいぜい机の隅に縮こまって飲み食いするしかできない。いや、黙って黙々と食べていられるならまだいい方で、せっかく久しぶりに会えたんだからとかなんとか言われて、周りに気をつかわれるだろう。そうなったところで、どうせうまく返事もできないし、会話が弾むほどの思い出があるわけでもない。無理に話を続けようとしたところでお互いに苦労するだけだろう。向こうだってそのうち嫌気がさしてくるに決まっている。だんだん、お互いの口数も少なくなり、賑やかな会場の片隅、わたしの周りだけお通夜みたいな空気になるだろう。そんなことになってしまったら元も子もない――あのときの予感は、早くも当たりかけている。

 なんで、断らなかったんだろう――次々に湧いてでてくる後悔にさいなまれる。

 その一方、あのとき――喜多ちゃんが珍しく少しためらいがちに同窓会の話題を振ってきたとき――「行きません」という言葉の代わりに胸の中から浮かんできた元クラスメートの顔が、再び目の前にちらついた。

 恐る恐る、少しだけ顔を上げて部屋の対角線の反対側、向こうの隅の様子をうかがう。その人は、そこで笑って司会者の方に注目している。遠い横顔には、眩しいほどに懐かしい、少しイジワルそうなニヤケ笑いが浮かんでいて、時々周りのヤジに振り向いて、ニヤニヤ口元を緩めたり、左右の話に応じていたり。

 その両手の薬指に光る指輪以外は、記憶の中にある姿とほとんど変わっていないように見えた。

旅立ち

 高校を卒業して二年が経った三月の頭に、元クラスメートの佐々木さんからメッセージが飛んできた。もう一年はやりとりをしていなかったから、てっきり送り先を間違えたんだと思って、「後藤ひとりです」と返信した。

 さすがに、あのときのわたしにだって、佐々木さんから突然「新宿西口に来て欲しい」なんてお誘いが来るような関係じゃないってことぐらい、理解できているはずだった。喜多ちゃんと佐々木さんとわたしで作った三人のグループがあったから、多分送り間違えたんだろうと思った。佐々木さんだって、高校二年のときに同じクラスになって以来――喜多ちゃんを間に挟んでとはいえ――それなりに一緒の時間を過ごしてきたわけだし、わたしがどんなやつだか知らないはずもないから、こんなお誘いに乗ってこないってことくらい――しかも、なんの理由も前触れもなかったから、ふつうに考えたってなおさら――知っていてくれるはずだという思い込みもあった。きっと、すぐに謝ってきて話は終わるだろう。それはそれでちょっとだけさみしいような気もするけど、仕方がない。

 そう思ってスマホを置き、それきりになるはずだったのに、現実はまったく予想もしない方向に転がっていった。

 まず、間髪入れずに返信があった――「あってる。旅行しない?」。それに続けて集合場所――新宿駅西口――が送られてきて、乗る予定だという電車の時刻表が貼られる。

 旅行! その言葉を見て、さらに目が回った。しかも、佐々木さんの文面から、わたしたち以外のだれかが着いてくるようには読み取れなかった。二人で旅行しようということなんだろう。

 そもそも、佐々木さんと旅行したことなんて高校の修学旅行だけだ。あのときは喜多ちゃんと三人で行動していたし、盛り上がる喜多ちゃんに音頭を取ってもらいながらあちこち動き回っていたんだから、佐々木さんはわたしだけじゃなく喜多ちゃんにもよく話しかけていた。それに、他のクラスメートたちもいて、部屋に押しかけてきたことだってあったし、クラス全体で行動する時間もあったんだから、当然わたしと佐々木さんの二人きりになるタイミングなんてなかった。修学旅行を除いたって、佐々木さんと二人きりで何かをした経験なんて、ほとんどない。

 佐々木さんだけじゃない。だいたい、だれかと二人きりで旅行に行くなんて経験は、わたしには無かった。あのとき以降、いまにいたるまでも無い。少し考えただけでも気が沈む。寝ても覚めても二人きりだなんて、想像もつかない。朝起きてから夜横になるまで、ご飯から何から、どこへ行くにしたってずっといっしょに行動するだなんて、ゾクッとする。一日二十四時間逃げ場が無いだなんて息が詰まってしまう。

 最初は、そんなことを言われても……という思いに傾いていた。当然断るつもりでメッセージを打ち込み始めて、どういう理由で断ったらいいのかわからなくなって手を止めた。

 その日、わたしは実家にいて、そのときは午前中だったから、行こうと思えば十分間にあった。しかも運がいいのか悪いのか、その週は予定の無い週だった。せめてバイトか、練習か、ライブか、なにか予定があればそのせいにして断ることができただろう。でも使える口実がない。仮病を使ってもすぐ見破られそうな気がした。いや、見破られただけならまだマシだ。万一喜多ちゃんに連絡でも行こうものなら、後で困るのは結局わたしだった。

 もんもんと悩んでいると、いろいろなことが浮かんできて収集がつかなくなった。あの佐々木さんが、突然こんなことを言ってくるなんて予想もできない。もしかしたら、なにか事情があるんじゃないか――旅行なんてのは口実で、ほかの理由があるかもとか、それにしても出発時間まで決まっているなんて具体的すぎるとか――いろんなことが同時に湧き上がってきて、混乱してしまった。

 散々悩んだ末に、わたしはスマホを投げ出した。メッセージには三泊四日と書いてあったから、キャリーケースを探し出して三泊分の荷物を詰め込み始めた。

 当時は実家暮らしだったから、お母さんにも旅行のことを言ったはずだけど、なんと言ったんだが覚えていない。びっくりしたお母さんとちょっとやり取りした記憶はある。お母さんもとまどっていて、いろいろ聞き出されたと思う。でも、何も知らされていなかったら、答えようがなかった。

 最終的に、わたしは説明を諦めて無言で用意を終え、家を飛び出した。時間が迫るにつれて、とにかく行かないといけない気がしてきていた。わたしが行かなくても、たぶん佐々木さんはあの列車に乗るだろう。行かなかったからといって佐々木さんが旅行をキャンセルするような気がしない。それに、当日キャンセルはお金がかかるはずだから、そんなもったいないことはしないだろう(と思っていた)。佐々木さんを待たせるのは申し訳ないとか、期待だけ持たせて裏切るわけにいかないとか、自分でもなんだか訳のわからないことを考えながらぼうっと電車に揺られていた記憶がある。よくよく考えてみれば、向こうの都合に合わせてこちらが動いているんだから、申し訳ないとか裏切るとかいうのも違うはずだ。もしおうちがすぐ近くにあるとか、ちょっと近所に出かけるとか、よく通っている相手とかだったら違っただろう。それこそ、佐々木さんと喜多ちゃんみたいに。渋谷でお買い物とかだったら(わたしには億劫だけれど)、断るのも申し訳ないということだってあるかもしれない。でも旅行だ。それも三泊四日だ。どこへ行くのかもわからずに集合場所だけ知らされても、のこのこついていくなんて友達はそうそうないだろう。

 それでも、わたしは家を出て新宿西口に向かった。あれこれ思いつくものを詰め込んだキャリーケースを引いて。余計なことを考えすぎて、なんとなく、そうしないといけないような気になってしまったから。

 電車に揺られて午後七時前に着く。七時前に着いたということは、家を出たのは五時前になる計算だ。当時、ふたりは小学五年生のはずで、たぶん帰ってきていたはずだ。お母さんも夕飯の用意をしていたはずだった。考え直したらずいぶんメチャクチャなことをしたと思う。でもお母さんは怒らなかったし引き止めもしなかった。お父さんに至っては後からうれしそうなメッセージを送ってきたくらいだったから、ウチの家族はちょっと変わってるのかもしれない。

 佐々木さんは大きなリュックサックひとつを背負って通路の脇に待っていた。人混みのなかで見慣れた顔が見つかるとホッとする。わたしがふらふらしながら近づくと、向こうも気づいて小さく笑っていた。たぶん、わたしの挙動が予想通りだったからおかしかったんだろう。

 挨拶もそこそこに、佐々木さんが慣れた足取りで改札に向かいはじめる。慌てて後を追うと、改札を素通りして駅員さんに切符を差し出している。退屈そうな顔の駅員さんとなにかやり取りしたかと思えば、会釈をした佐々木さんが、そのまま改札内へ入っていく。

 ハタとうろたえて固まってしまった。切符もなければ行き先も教えてもらっていない。まさか、入場券で旅行に出るわけにもいかない。当時は定期券だって持っていなかった。

 慌ててPASMOを取り出そうと思ってワタワタしていたら、先に入った佐々木さんが引き返してきて手を引かれた。無賃乗車になると焦っていたら、あきれた顔の佐々木さんが耳元で「18きっぷだから」とささやいた。

 当時、青春18きっぷの名前を知らなかったわけじゃない。でも、使ったこともないし、本物を見たのもあれが初めてだった。構内を横切ってエレベーターに乗る間、含み笑いを浮かべた佐々木さんが、きっぷを見せながら使い方を教えてくれた。わたしを待っている間に買ったという新品のきっぷには、真新しい新宿駅のハンコが二つ、テカテカ輝いていた。

 佐々木さんについていって湘南新宿ラインに乗る。夕方のラッシュで、下り列車は混んでいた。はぐれないようにしながら大きな荷物を支えているのがやっとだ。佐々木さんは眠たそうな表情のまま、時々手を貸してくれるだけで、あとは黙って電車に揺られていた。

 その間、どこへ行くのかは教えてもらえていなかった。いや、聞かなかったから教えてくれなかっただけだろう。サプライズでどこかへ連れ出そうという雰囲気でもなかった。わたしは、どこまで行くのか尋ねようと思って口を開らきかけてはやめるのを何度か繰り返した。けれども、車内が空いてやっと座れたと思ったら佐々木さんが目をつむって寝る姿勢に入ってしまったので、諦めてついていくことに決めた。

 ただ、聞いたところではっきりした答えがあったかどうかはわからない。行って帰ってきたいま、思い返してみても、新宿を出たときに佐々木さんがどのくらいあの日からの道筋を思い描いていたのかはわからない。

 電車に乗ってからの佐々木さんは、わたしの記憶の中にあった佐々木さんとは少し印象が違っていて、そのせいで少し戸惑ったのを覚えている。高校時代の佐々木さんといえば、喜多ちゃんをからかったり、わたしに話しかけてくれたり、ちょっとイジワルなこともあったにせよ、いつも優しく接してくれていて、わたしの高校生活の中でも数少ない良い思い出を作ってくれた、大切な友達だった。それが、その日その時の佐々木さんは、新宿駅を出てから一言もしゃべらなかった。

 まさか、あの改札でのやりとりがよっぽど気に障って、こんなやつを誘うんじゃなかったと後悔しているんじゃないか。そうだとしたらどうしよう。謝ったら許してくれないだろうか。いや、18きっぷの使い方も知らない、混雑している改札でモタついてまわりの通勤客に迷惑をかけたわたしなんか、いくら謝ったって許されないだろう(そのころのわたしは、本気でそう考えていた。今となっては案外そうではないことを知ったけど――忙しい通勤客は、改札でモタモタしているピンク色の若い女のことなんて覚えてないのがふつうだし、SNSでバズるほどの価値もない)。でも、もう電車が出てしまった以上、その隣に座って大人しくしているしかない。もし途中で、もういいから帰れと放り出されたら、おとなしく一人で引き返そうと考えていた。最後にチャージしたのがいつだったか、PASMOの残額と財布の中身のことを考えていたから、いつまでも気が休まらなかった。

 ひどく緊張していたせいで、その晩は電車を降りた後の記憶がなかった。たぶん佐々木さんが予約したホテルに泊まったんだと思う。どこまで行けたのかも覚えていない。

 ホテルでも余り眠れない夜を過ごした。やっとまどろんで朝早く目が覚めた時、ひどく心細くなったのを覚えている。佐々木さんは、こっちの気持ちを知ってか知らずか、黙々と準備をして、朝ご飯に誘ってくれた。わたしも諾々と従って、また駅で電車に乗った。

 二日日の移動は、初日よりずっと長かった。乗った電車の終点で降りて、来た電車に乗るのをずっと繰り返していった。

 高校の時は片道二時間かけて通っていたんだから、電車に乗るのには慣れていたつもりだった。でも、今回の移動はその比じゃない。大げさでも比喩でもなく本当に朝から晩まで電車に乗り続けるなんていうのは初めてだった。しかも、例によってあれこれと妄想が巡ったせいで気が休まらなかったから、わたしはすっかり疲れてしまって、途中の出来事の記憶がほとんどあいまいだった。後で写真を見たら、やたらとたくさん姫路城が残っていたので、たぶん姫路で降りて、観光かなにかしたんだと思う。ただ、なんで降りたのかも、降りてなにをしたのかもわからない。理由も経緯も何もわからない。事実として、お城に登ったり降りたりしたらしい記録があるだけだ。

 もっと写真を撮って残すくせでもつけておけばよかったとか、帰ってきてから少し後悔したのを覚えている。

 ただ、その晩の宿泊地は姫路じゃない。広島だった。

 ここははっきり覚えている。なぜかというと、コンビニでご飯を探しているときに修学旅行の話をしたから。高校では、喜多ちゃんと三人で京都を巡った。そのときに、わたしの中学の修学旅行先が広島だったと言ったのを覚えていてくれたらしく、せっかくまた来たんだから、どこか行きたいところはないのかと聞かれた。

 でも、中学の修学旅行は本当にただ行って帰ってきただけのようなものだった。高校時代よりはるかにコミュニケーションが苦手だったわたしは、班の中でもしゃべる相手がおらず、ただあちこちついていっただけだった。一応、平和記念公園とかなんとか、そういう通り一遍のところは回った記憶があるけど、行きたいかと聞かれるとそうは答えられなかった。あんまりメジャーなところを挙げても佐々木さんは気に入らないんじゃないかと考えたり、かといって知ってる場所もないしと迷ったりした末、ないと答える。佐々木さんはクスッと笑った。

「そっか」

「す、すみません……」

「いや、いいけどさ」

 佐々木さんは、何か考えながらお弁当とお酒の缶をいくつかカゴに入れていた。その後ろでウロウロしていたら、突然袖を引かれた。

「後藤後藤」

「は、は、はいっ⁉」

「酒飲む?」

「あ……の、飲んだこと、ないです……」

「あれ? 何月生まれだったっけ?」

「二月二十一日……」

「飲めるじゃん。飲んでみる?」

 佐々木さんがお酒の缶を指さしながら尋ねてきた。

 なんの缶だったかは全く覚えていないけど、ビールじゃなかったことだけははっきりしている。ホテルで二本目に口をつけたのがビールで、その缶は違う見た目をしていたから。たしか白っぽかった。でも白い缶のお酒なんてたくさんある。人生初のお酒が何だったかすら覚えていないなんて、もったいないような気がする。

 わたしがオドオドうなずくと、佐々木さんは苦笑いを浮かべながら、その缶をカゴに入れた。

「まあ、無理しなくていいからさ」

「は、はい……」

「ウチも、そんな飲まないし」

「そ、そうなんですか」

「うん。ビールかカクテルくらいかな」

「はあ……」

「つっても、コロナがあったから飲み会らしい飲み会ってやったことないんだよね」

「えっと……?」

「だから、ウチも初めてみたいなもんだし」

 佐々木さんは、鼻で笑っておつまみを追加した。

 会計を済ませて部屋に戻った。温めたお弁当を囲んで、二人で乾杯する。佐々木さんは缶を開けると、落ち着いた微笑みを浮かべて音頭を取った。

「誕生日、おめでと」

「あ、ありがとうございます」

「もうみんな二十だもんなー」

 そうつぶやきながら、佐々木さんはビールを飲んでいた。わたしがもらったのは一番度数の低いサワーだったはずだ。

「どう?」

「あ……甘くて……の、飲みやすいです」

「そっか、そーか。そりゃーよかった」

 佐々木さんは楽しそうに笑っておいしそうにお酒を飲む。わたしもつられて缶を空けた。疲れた身体で、酔いは早く回った。そして、調子に乗って二本目を飲もうとして、佐々木さんからビールを渡されたところで、夜の記憶は途切れている。

ねぐせとすっぴん

 翌朝目が覚めたとき、頭が重たくて起き上がるのに苦労した。痛いとか気持ち悪いとか、なにか具体的な困り事がある感じじゃなかったような記憶がある。でも、とにかく起き上がるのが億劫だったことだけは、はっきり覚えている。

 すぐ隣から乾いた笑い声が聞こえて、ギョッと身がすくむ。恐る恐る振り返れば、ベッドのすぐ隣、同じ布団の中に佐々木さんがいた。

「寝癖、やば」

 ハッとして、指さされた後ろ頭を抑える。あきれ笑いの佐々木さんに言われるまま手の位置を下げていくと、髪の先のほうがひどくこんがらがっていた。

 モゾモゾしていると、ゆっくり起き上がった佐々木さんが立ち上がり、サイドボードから櫛を取って隣のベッドに腰を下ろした。きれいなシーツの間にスペースを作って手招きしてくる。

「ちょいちょい、こっちこっち」

「え?」

「とかすから」

「す、すみません……」

 重たい身体を起こして隣のベッドに移る。招かれるままゆっくり向きを変えると、すぐその手が伸びてくる。ベッドサイドの鏡をのぞきこむ状態になり、佐々木さんは髪の先にゆっくり櫛を通し始める。

「すげーな、これ」

「す……すみません」

「謝るようなことじゃないけど」

「はい……」

「後藤、あんまり飲めないんだな」

「ううっ……」

「いや……まあ、しかたないでしょ」

 佐々木さんは、愉快そうに鼻歌を放りながら、小さな声でぼそっとつぶやいた。

「後藤のすっぴん、久しぶりに見たなー」

「あ……え?」

「いやいや。全然会えなかったから」

 ていねいに髪の毛の先をほぐしながら、佐々木さんは懐かしそうな、ちょっとだけ寂しそうな声で小さくつぶやいた。

「もう二年経つんだよな」

「は、はい……」

「結束バンドも頑張ってんじゃん」

「あ、はい」

「時々見てるけど、後藤、相変わらず前向けないんだな」

「うう……」

「はは、まあいいけどさ」

 やっと前みたいに雑談ができるようになって、少しほっとした。話をしていると佐々木さんの中身は変わらずに佐々木さんだった。高校を出てからのこととか、高校時代のことを少し話しているうちに、わたしはなんだかホッと安心を覚えて、ウトウトしてしまっていた。

 突然頭を両方からわしづかみにされて、思わず飛び上がりそうになる。まばたきをすると、鏡の中から、イジワルな笑顔を浮かべた佐々木さんがわたしの頭を抑えながら話しかけてくる。

「終わったけど?」

「あっ、ありがとうございます……」

「なに? ウチの顔に、なんか付いてる?」

「あ、いえ、いいえ! 全然……素顔がきれいですね……?」

「はは、なんそれ」

「す……すみません……」

「おもろいからいいけど」

 佐々木さんは、そのまま腕を伸ばしてわたしの胸に回すと、少し力を入れて引き倒してくる。そのまま佐々木さんの横に寝かされてしまう。

 佐々木さんの瞳が正面からのぞき込んでくる。目をそらしたくても、そらす先がない。瞬きをしたら、お互いのまつげが絡みそうなほどの距離だった。ちょっと眠たそうな顔の佐々木さん――でも、じっと見つめてくる。あんなに深く見つめ合った事なんて後にも先にもない。表情は眠たそうなのに、瞳は真っ直ぐだった。吐息が顔をなでてむずがゆい。佐々木さんは、小さな声で尋ねてきた。

「……きょう、どうする?」

「え、えと……」

「いつまで行ける?」

「え……? 明後日までじゃないんですか?」

「あー、まあ。ウチはもう少し行けるんだけどさ」

「えっと……土曜に、バイトがあるので」

「そっか。じゃあ明後日には帰らないとまずいか」

「すみません」

「や、いいって」

 急に佐々木さんが起き上がったので、そのときの話はそこで終わりだった。わたしは一緒に起き上がって朝の支度を調え始めた。

 ホテルの朝ご飯を食べ終わって荷物の確認をしていた時、佐々木さんから「電車乗る?」と聞かれた。

「え……?」

「いや、ずっと乗ってきたし、船とかバスとかもアリかなって」

 佐々木さんは財布からとりだしたきっぷをハタハタと仰いでみせる。

「買い足したら余るし」

 佐々木さんは口の中で言葉を転がしただけで、とくに返事を待つわけでもなく「行こ」と言った。

 広島の駅に着いてから、佐々木さんは案内板を見比べたあとにわたしの顔を見て苦笑を浮かべ、バスにしようと言った。

「船、弱そうだもんなー」

「す、すみません……」

「いいって、いいって」

 窓口でチケットを買ってもらい、代金を渡す。時間を潰してバスに乗る。

 バスの中で、佐々木さんはごくごく小さな声で「どこまで行けるかな」と言った。もし、ちょうどそのタイミングですれ違う車か追い越す車がいたら、たぶん聞き取れなかっただろうというくらいのかすかな声だった。

 なにか、キュッと胸の奥をつかまれるような感覚があって、わたしは思わず、じっと佐々木さんの横顔を見つめていた。ぼうっと、どこか遠いところを見つめるような、ぼんやりした表情の佐々木さんは、しばらくの間、わたしの視線に気づかなかった。

 バスを降りたのが昼過ぎだったから、何か食べようという流れになった。わたしたちは駅の近くをウロウロして、適当なラーメン屋を見繕っておなかを満たす。

 佐々木さんが少し歩きたいと言ったので、地図を頼りに港を目指した。船を見つめる佐々木さんの横顔があまりにもさみしそうに見えたから、わたしは知らず知らず、そっとその横に立って手を取っていた。

「うっわ!」

 佐々木さんがすっとんきょうな声を上げた。まさか、こっちからこんなことをするとは予想していなかったみたいに。

「な、なに?」

「あ……その、船、乗りませんか?」

「……ええ?」

 佐々木さんの表情が険しい。いや、嫌がるとかそういうのじゃなさそうだから、険しいというのは違うかもしれない。疑うとか、怪しむとか、そういうほうが近いのかもしれない。

「わたし、乗ったことがないから酔うかわからないんですけど……佐々木さんが乗りたいなら……」

「え、でも、どこいくの?」

「し、調べます!」

 疑わしそうな表情を浮かべる佐々木さんの前で、急いでスマートホンを取りだした。とはいっても、なんの知識も無いわたしにできたことなんて、ブラウザを立ち上げて「九州 フェリー」と打ち込むことくらいだった。それで関東行きのフェリーが引っかかったとき、助かったと思った。時間も何も見ずに「これがいいです!」と佐々木さんに突きつけて、苦笑いを浮かべられた。

「これ、明日の夜着くやつみたいだけど」

「あ、明日は、一日、空いているので……」

「んー……後藤の家、横須賀の近くだっけ?」

「あ、えっと、はい」

「なら、ちょうどいいか」

 佐々木さんが自分のスマホを取り出して行き方を調べてくれる。時間に余裕があると言って、お土産を冷やかしたり、うどんを食べたり……その間、佐々木さんはずっとクスクス笑っていた。

 連絡バスで港に着いたのは、深夜になってからだった。ライトに照らされた大きなフェリーを見上げて、佐々木さんは感嘆の声を上げた。

「でか」

「おっきいですね……」

「いいなー、こういうの」

「そうですか?」

「うん」

 クスクス笑いながら、佐々木さんはスタスタと歩いて行く。わたしは言い出しっぺにもかかわらず、佐々木さんに手続きをお願いして、代金を払っただけ。結局、最後まで佐々木さんに頼りっぱなしの旅行が、終わろうとしていた。

 荷物を片付けてから、佐々木がデッキに出たいと言った。二人で外に出て、夜の海を見つめていたとき、佐々木さんはしみじみと、小さな声でつぶやいた。

「後藤はやさしいからな――」

 それは波の音に飲まれてもおかしくないような小さな声だったけれど、わたしの耳にはハッキリ聞こえた。

「え……?」

「あの……後藤、さ……。抱きしめてくんない?」

 佐々木さんの声は少し震えていた――と、思う。あの時の光景は、なぜだかハッキリと思い出すことができる。佐々木さんはこちらの顔を見ていなかった。港の灯りが、その顔を照らしていた。目に飛び込むネオンの光が、キラキラと反射してまぶしかった。

 わたしは、そっと近づき、上ずる声を必死で押さえつけた。

「し……失礼します……っ」

 恐る恐る手を伸ばす。ポケットに手を入れたまま、脇を開いて迎え入れてくれながら、佐々木さんはわずかに振り返ったと思う。その穏やかな、透き通った瞳が、キラリと街の灯りを反射した記憶があるから。

 後ろからぎゅっと抱きしめると、脇にはさまれる。ぎゅうぎゅうに抱きつくと、佐々木さんはケタケタ笑ってひとつさけんだ。

「あったけー!」

 こんなふうに笑う佐々木さんを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。すぐ思い出せる笑顔といえば、何かを思いついた時や隠している時のニヤ〜ッとした笑顔か、喜多ちゃんを眺めている時のあきれたような、あるいは苦い笑顔とか。

 わたしの記憶の中にはない佐々木さんの笑い顔――暗い海を眺めて、ケタケタ笑うその声と顔は、一番やんちゃな笑顔だったと思う。


 もし、あのデッキでわたしたちの旅が終わっていたら、これほど幸せなことはなかったと思う。とにかく、出航した後の時間は地獄だった。特に一日目はひどい船酔いのせいで、ほとんどなにもできなかった。

 いちおう、出航してすぐだけはテンションの上がっている佐々木さんと一緒に船内のお店を見て回るくらいの余裕があったけれど、しばらくするとすっかり酔ってしまった。後にも先にもあんなに長い時間のフェリーに乗ったことがないから、あの日が特にひどく揺れていたのかどうかわからないけれど、わたしたちの船は結構揺れていたと思う。佐々木さんが酔い止め薬と飲み物を買ってきてくれたけど、それもあまり効かなかった。わたしは、トイレに行くのでなければずっとベッドの上で丸くなっていた。

 一方の佐々木さんは、全く船酔いはしていないようだった。それどころか、自分のカプセルで横になっているわたしを置いて、船内を散策したり、お風呂に入ったり。時々戻ってきて様子を聞いてくれる。ただ、わたしの返事はあまりかんばしくなかった。

 レストランでお夕飯を済ませてきたという佐々木さんが、隣り合うカプセルの入り口に腰を下ろして、ケタケタ笑いながら缶ビールを飲んでいた。

「いいよ、後藤はそのままで」

「へ……?」

「そのままでいて欲しいな、ずっと」

「ずっとはこれはいやです……」

「ははは。じゃあ定期的に七転八倒して」

 陽気な佐々木さんが笑った。こんな苦しみを味わうのはいやだと思ったけれど、何を言い返す気力も体力も無くて、わたしは丸まってうなっているしかできなかった。

同窓会

 同窓会は(たぶん)盛況のまま進んでいった。たぶんがつくのは、やっぱり、わたしはうまく会話に混ざれなかったから。それでも、周りの元クラスメートたちと少し話をして、当たり障りない返事を返すくらいのことはできた。あれから十二年経って、わたしもわたしなりにコミュニケーションの取り方を学んだ。やっぱりひとと話をするのはおっくうなんだけれど、最低限それっぽくかわすことはできるようになったと思う。


 途中で席を外したときのことだ。

 お手洗いに行って、帰り道の途中で喫煙所に寄り道をした。お店の外に出て、通りに背を向けながらライターを回していたら、急にドアが開らいた。

「後藤!」

 中から飛び出してきたのは佐々木さんだった。ビクッとしてとっさに両手を挙げると、すかさず腕を回してきてギュッと抱きつかれる。

「ははは、なにしてんの?」

「あ、危ないじゃないですか……!」

「んあ? 火、持ってんのか」

「はい」

「ごめん、ごめん」

 ケタケタ笑う佐々木さんは、わたしの前に立つと、両肩に手をおいて、ぽんぽんとたたいてきた。

「変わんないな、後藤は!」

 あきらかにテンションが高すぎる。街灯の明かりに透かしてみると、その頰はうっすら色づいている。

「佐々木さん……飲み過ぎ……?」

「後藤がそんなこと言うなよお」

 佐々木さんの口調は少しモタついていたし、足取りもあやふやだった。ニヤニヤした締まりの無い笑顔を浮かべたかと思えばぼんやりした瞳で見つめてくる。眠たそうにゆっくり瞬きしたと思ったら、ふらっとよりかかってきた。

 火を遠ざけながら身体を回してベンチの方に押しやる。佐々木さんは、ヨタヨタしながらもなんとかそこに腰を下ろしてくれる。

 久しぶりの飲み会で懐かしいみんなに会ってはしゃぎすぎたんだろう。佐々木さんは優しかったし、わたしなんかと違ってたくさんの友だちに囲まれていたんだから。

 ひとりでモンモンとしていたら、一息ついた佐々木さんがふわっとわたしを見上げて口を開らいた。

「後藤、後藤?」

「はい……?」

「何、吸ってんの?」

「あ、アメスピです」

「なんで?」

「長持ちするので……」

「はははっ! 学生かよ!」

 けたたましく笑ってから、佐々木さんが手を伸ばしてくる。

「一本ちょうだい」

「佐々木さん、吸うんですか?」

「お酒、飲んだときだけね」

 催促されて、一本差し出す。ライターも渡すと、慣れた手つきでカチッと火をつけ、ゆっくり一口煙を吸って吐く。

「自分で買ったこと、無いな、そういや」

「え……?」

「や、なんかいつももらってばっかりだからさ」

「そ、そうなんですか……」

「普段吸わないんだけど、ひとが吸ってると欲しくなるときがあってさ」

 並んでベンチに座ったまま、しばらく吸ったり吐いたり。静かな時間を過ごす。

 佐々木さんはことさらゆっくり煙を味わいながら眉を寄せて少し考えているようだった。何を言いたいのか、何が話題になりかかっているのかは少しだけ予想がついた。でも、わたしのほうでもキッカケにできる言葉がなくて、黙ってタバコをふかしつづけた。

 いたたまれなくなって二本目に火を付けたときだった。佐々木さんが、半分くらいの長さになったタバコを口にくわえなおして、バッグを開けた。その中からスッと小さな封筒を取り出す。さらにその中から出てきたものを差し出されて、火を付けたばかりのタバコをうっかり落としてしまった。

「……覚えてる?」

 差し出す佐々木さんの指は、かすかに震えていた。少し傷の目立つ、くたびれたきっぷを受け取って、わたしはあの日の旅行の一日目に降りた駅を知った。

 どこか、心細そうな視線と小さな声で尋ねてくる佐々木さんに、わたしは大きく何度もうなずいてみせた。佐々木さんはパッと顔を明るくして、うれしそうに笑った。

「あはは。そっか。博多まで行ったよね」

「行ったというか、ずっと移動してるだけでしたけど……」

「帰りはやたらめったら食べたじゃん?」

「あ……わたしはほとんど寝ていたので……」

「それいゆの話でしょ?」

「え……?」

「それいゆ。フェリーの名前」

「あ……そうなんですね……」

「『ご飯が食べられる』って、泣きながらかけうどん食うやつ、初めて見た」

「わ、忘れてください……」

「無理だなー」

 佐々木さんは、あと一つ残して期限切れになったきっぷを愛おしそうに眺めながら、煙を吐いた。

「後藤さ、ありがとね」

「え?」

「急に連れ出したのに付き合ってくれて」

「びっくりしましたけど……」

 率直な気持ちを伝えると、佐々木さんは実に愉快そうに笑ってから話を続けた。

「ウチ、就職決まってたでしょ?」

「はい」

「だから、なんか最後にやり残したことないかなーとか、考えてて。急に後藤のこと思い出してさ」

「はい」

「喜多とはやりとりしてたし、結束バンドのMVも見てたんだけどさ。後藤とは会わなかったなーと思って」

 そのあと、佐々木さんはまた黙り込んでタバコを吸っていた。

 最後の一口を吸い終わると、灰皿に落としながらぽつりとこぼす。

「ごとーは、やさしーからなー……」


 きっぷを大切に封筒に戻して、バッグに入れようとした佐々木さんが急に動きを止め、顔を上げてじっとわたしを見つめた。意味がわからなくて見守っていると、ニコッと微笑んだ佐々木さんが、しまいかけた封筒を差し出してきた。

「後藤、いる?」

「いらないって言ったら、どうなるんですか?」

 佐々木さんは、ニヤーッと笑った。見慣れた意地悪な笑顔だった。なんだか、ひどく懐かしくてわたしも笑っていた。

 それから封筒を持ち上げて、顔の前で軽く振った。

「持って帰ってしまっとく」

「なら、いりません」

「そっか、そーか」

 二人で笑いながら中に戻り、それぞれの席に向かう。わたしは入り口の近くに、佐々木さんは奥の方に。

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