ぼリョa/b/o v 0.6.0
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ぼリョa/b/o v 0.6.0

  • ぼリョウオメガバースR-18
  • ぼa&リョb→O
  • 少しずつ書き足してます。
  • 前半はだいたい終わったか……? 後半追記したら一応完走。その際、セクションヘッダーを整理するかも……?
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  • 2024-03-20
    • p. 18に「ヒート編」を追加
    • 「転居」「新居の生活」をp. 14にまとめた
    • 「救急車」のページ区切りを変更してpp. 15、16、17上段までとした
  • 2024-03-19
    • pp. 9-10に「合鍵編」を追加
    • pp. 11-12に「オナホ編」を追加
  • 2024-03-16
    • pp. 3-4に「寝袋編」を追加
  • 2024-03-13
    • pp. 5-6に「荷物編」を追加
  • 2024-03-11
    • pp. 3-4に「酒とキス」のエピソードを追加
    • 「虹夏バレ」をp. 2 にまとめた
    • p. 5 に「ルームシェア」を独立させた

初交渉

 ぼっちは高校を卒業してすぐに都内に引っ越してきた。それから半年経った秋、初めてセックスをした。

 天気のわりに蒸し暑い昼間。やっとの思いでぼっちのアパートにたどり着き、インターホンを押す。少し間がある。やっと出てきた声は、少し焦っているように聞こえた。

『は、はい……?』

「ぼっち、入れて」

『あ、え、リョ、リョウさん、ですか?』

「うん」

 ドアホン越しに、ぼっちはしばらく言葉にならないうめき声のようなものをあげていた。ただ、このやりとりもその日が初めてのことじゃなかったから、わたしはなにも気にしていなかった。

 しばらく間があって、いつもどおりにドアが開く。出てきたぼっちは、普段より暗い表情だった。

「あ、リョ、リョウさん……」

「入れて」

「あ、はい……」

 上げてもらってお茶を飲みながら本を読んでいる間、ぼっちは遠い部屋の隅に座っていた。体育座りをして腕を組み、顔を伏せていたかと思ったらちらっとこちらを見てくる。最初は気付かなかった。あんまりちらちら視線を投げてくるから流石に気づいた。いつものことだと思って放置するつもりだった。

 ただ、きょうは、いつにもまして落ち着きがない。いや、いつもだって平均の比でないほど荒ぶることがあるけど、今日は普段とは質の違うような違和感があった。

 無視しきれなくなって顔を上げると、目が合った。一瞬で視線をそらしたぼっちが、首を振り始めた。たぶん、キョロキョロ周りを見ていたらたまたま目があっただけというアピールのつもりなんだろう。でも、この部屋には数えるほどの荷物しかない。空き部屋と同じような部屋で、そんなにキョロキョロするほうがよっぽど怪しい。

「なに?」

 ため息交じりに声を掛けると、ぼっちはビクリと肩を震わせた。また顔を伏せて一言うなり声を上げてから、とうとう観念したらしく、そろりと顔を上げる。

 ぼっちが、ひとつ鼻をすする。消え入りそうな小さな声で謝ってくる。

「ごめんなさい……」

「なに?」

「き、気持ち悪いですよね……すみません……」

「いや、何の話?」

「わ、わたし……ときどき、フェロモンの、コントロールがうまくいかなくて、調子、調わないこと、あるんですけど、きょう、たまたまそれで……」

 もごもご、口の中で言葉を転がしている。フェロモンどうこうは、アルファの話だろう。ぼっちがアルファだというのは高校の頃に聞いていた。好奇心を持たないわけじゃないけれど、聞き出そうとしてもまともな答えがあったためしがないからよく知らないままで来た。

 漏れてくる言葉を拾ってつなぎ合わせているうちに、ふと思いついたことをそのままぶつけてしまった。

「わたしの顔見て勃起したってこと?」

 ぼっちが両手を挙げて壁にはりつく。声を出さずにさけぶ。べたっと床に倒れてすぐに起き上がる。もう一度ぎゅっと膝を抱き込んで顔を伏せ、早口に弁解を始めた。

「ち、違います!! 朝からずっとで、落ち着かなくて、別にずっと勃ちっぱなしとかでもなくて、いや、なんかムラムラ、むずむずはするんですけど、けしてリョウさんを見て興奮したわけじゃなくて……あ、いや、きれいだし……スタイルもよくてうらやましいですけど、その、リョウさんのせいじゃなくて……生理現象、そう、生理現象だから……」

 ぼっちは小さな声でぼそぼそ、ぶつぶつ、何かをしゃべり続ける。聞き取りづらいから身を乗り出す。それでもよくわからないからにじりよる。近づいて近づいて、隣に腰を下ろす。その間、うつむくぼっちは気づかなかった。

「顔上げて。聞き取れないから」

 声をかけるとぼっちが息を詰めた。ゆらっと顔を上げた。目いっぱいに涙を浮かべている。透明感のある綺麗な目だった。丸く大きく広げられた瞳が揺れている。

 魔が差したと言ってしまえば、それだけの話。ただ、かわいそうだとか、あわれみとか、そういう気持ちじゃなかった。気になってたのは事実だし。そう、これは好奇心。そして生理現象だから、仕方ない。

「わたしで興奮するんだ?」

「え……えと……」

「してみる?」

「え……?」

「セックス」

 ぼっちが目を回す。わたしじしん、そんな言葉がすらっと出ていったことに驚いていた。

「え……あ……え……?」

「する?」

「あ……はい……」

「じゃあ、コンドーム買ってくるから、先にシャワー浴びてて」

 それだけ言って、立ち上がる。財布を手に取って、顔を見ずに外に出た。

 薬局の場所がわからないからコンビニに行った。割高だって聞いたことはあるけど調べる時間が怖かった。いざ実物を目の前にすると少し恥ずかしい。でもいまさら引っ込みもつかない。そそくさと買ってアパートに戻る。

 真っ暗な部屋にシャワーの音だけが響いていた。手探りでスイッチを探す。部屋に明かりが灯る。一人で待っている時間は長かった。

 ユニットバスのドアが開く。出てきたぼっちが瞬きをしながら怯えるように肩をすくめた。

「え……え?」

「見えないでしょ」

「み、見ていいんですか?」

「まあ、恥ずかしいけど、暗闇で挿れられるの?」

 わたしが尋ねれば、ぼっちは喉を鳴らして自信なさそうに首を振った。そりゃそうだろう。いくら同じ形をしたものを持っているといったって、自分と他人じゃ話が違う。まして、お互いにセックスの経験なんてないわけだから。うっかり変なとこをいじられるのも嫌だったし。

 交代にシャワーを浴びて、2人で布団に入る。ぼっちは緊張のせいか無言な上に動き出さない。これじゃ終わらないどころか始まらない。仕方ないからこっちで順番に声をかけて触らせた。やっと動き出したぼっちの手つきはぎこちない。まるでぼっちの身体を使ってオナニーしてるみたいな状態だった。ただ、あんまりおっかなびっくり、のろのろ触ってくるから時間がかかりすぎる。かといって先を急いで痛い思いをするのもイヤだ。仕方ないから自分でも触ったりいじったり。ぼっちのためにセックスをしようと提案したのに。わたしの公開オナニーになるんだったら話が違う。そんな趣味はないんだし。

 それでもしばらくいろんなところを撫でたり触ったりしている内に、多少気分が乗ってくる。そろそろいいだろう。ぼっちの手を取って、まさぐるのを止めさせる。

「リョ……さん……?」

「そろそろ次行こ」

 ぼっちはつばを飲み込むと、コンドームに手を伸ばす。震える手で中身を取り出すと、ぎこちない手つきでゆっくり着けていく。

 着け終わったのを見て、動きやすいように足を広げる。今更になって恥ずかしさがこみ上げてくる。でも今更だ。誘ったのはこっちなんだし。今更やめにする気もないし。一応きちんと濡らせたわけだし。向こうも用意はいいみたいだし。

 あれこれ考えるからおかしな雰囲気になる。サクッと挿れて出すだけだ。これは生理現象なんだから。生理現象っていい言葉だ。今度から言い訳に使おう。

 ぼっちはゆっくり息をしながら、ゆっくり挿入した。おしまいまで動くと、突然支えを失ってわたしの上に崩れ落ちた。すぐ横で、そのまま深呼吸を繰り返している。

「動かないの?」

「あ、あの……」

 布団に顔を伏せたまま、ぼっちはモゴモゴと申し訳無さそうにつぶやいた。

「う、動き、方が、わからなくて……ど、どうしたら……?」

「いや。知らないし」

 さすがにそんなことは知らない。初めてだし、わたしにはついてないんだから。

 少しあきれた声になった。ぼっちが申し訳無さそうにもぞもぞうごめいている。

「なにしてるの?」

「あ、いや……動くって……?」

「抜いて挿れて」

「えっと……あ、こ、こう、ですか?」

「うん……気持ちいい?」

「あ、は、はい……リョ、リョウさん、は?」

「う……ん……?」

 まあ正直言って期待外れというか。血湧き肉躍るような興奮はなかったし、はっきり言って本番より前戯のほうがずっと気持ちよかった。

 ぼっちの表情が暗くなる。それに合わせて動きが止まりそうになる。わたしはため息を飲み込んで、ぼっちの肩に手を置いた。

「初めてだから」

「え、と……」

「ぼっちの気持ちいいように動いてみて」

 そういいながら背中をさすってやる。ぼっちはゆっくり息を整えてから、試し試し動き始めた。


 一応、ぼっちが最後までイけたから良かった。もしこれで最後までたどりつけなかったら、さすがに傷ついただろうし。

 射精を終えて、荒い息を吐いているぼっちの背中をなるべくそっとたたいてやる。すこし呼吸が整った頃に声をかけた。

「落ち着いた?」

「あ……すみません……」

「謝んないでよ」

「ごめんなさい……あっ……」

「いや、いいけど」

虹夏バレ

 セックスをしたところで、わたしとぼっちの関係がなにか大きく変わることもなかった。人生が変わるわけでも、世界が滅んだりもしない。それでバンド活動になにか利益があったかと言われてもわからない。何の実感もない。ただ、それまで通り時々ぼっちの家に行く。月に1〜2回セックスをする。


 年が明けてすぐ、スターリーのバイト上がりで帰ろうとしていたら、後ろから虹夏につかみかかられた。身がすくむ。確かに、今日の虹夏は珍しく口数が少なかった。でも心当たりが無い。最近はおとなしくしてたはずなのに。

「リョウ、ちょっといい?」

「な、なに?」

「来て」

 尋ねてくれるけどそんなの形だけだ。虹夏は有無を言わせずわたしの腕を引いて階段に足をかけた。黙ってついていくと、部屋に通される。そこでようやく虹夏が振り返る。

 そして、青ざめた顔と震える声で「ぼっちちゃんの財布にゴムが入ってたの」と言い出した。

 前の日、バイト上がり、ぼっちを誘って飲み物を買いに出たとき。自販機の前でぼっちが財布の中身を道端にぶちまけた。拾うのを手伝っていたら、レシートの合間にコンドームが入っていた。ギョッとしてとっさに見なかったことにしてそのままにしておき、拾い集めたポイントカードをまとめるふりをしていたら、ぼっちは素知らぬ顔で何気なくヒョイと拾って財布に収める。虹夏はなるべく普段通りに、表情を変えずに拾ったカードの束を渡して立ち上がった――だから、聞くに聞けず黙ってやりすごしたけど、どうしても気になって落ち着かない。

 こんな情緒不安定な虹夏を見るのも珍しい。青ざめたかと思えば顔を赤らめている。

「どうしよう……ねえ、リョウ? どうしたらいいと思う?」

「なんで?」

「だって、あのぼっちちゃんだよ? 変なひとにだまされてとかだったらマズいじゃん」

「見間違いじゃない?」

「触っちゃったの! あの手触り……絶対、お菓子なわけないし……」

「本人に聞けば」

「ヤだよ……だいたい、なんて聞けばいいの?」

「コンドーム持ってる? って」

 答えた瞬間、虹夏が腰を浮かす。逃げる暇も隙間も無い。手が振り下ろされると、背中に鈍い痛みを感じた。

「いたい……」

「バカリョウ!」

「ひどい……」

「余計なこと言うからでしょ!」

 虹夏はピシャリと言って席に戻ると、指を組んだり解したりしはじめる。ソワソワと落ち着きなく身体を動かしながら、ほとんどひとりごとみたいに小さな声で誰とでもなく話しかけてくる。

「ぼっちちゃんの彼氏……いや……出会いがあるわけないし……まさか、え、エンコーとか……? でもぼっちちゃんだし……危ない相手だったらどうしよう……」

 そこまで動揺するようなことかと思う。虹夏は過干渉だ。机に突っ伏して、ずっとブツブツ、何か言ってる。虹夏はいろんなパターンを挙げて悶々としてる。ただ、その想定の中には、ぼっちが誠実な相手と出会って恋に落ち、幸せで気持ちいいセックスをするというパターンはないらしい。というか、音楽関係かもしれないという想定の他、正解に1ミリもかすってこないあたり虹夏のぼっち理解には問題がある。

 とうとう頭を抱え始めた虹夏が、くぐもった声でつぶやく。

「うーん……あ、でも……アルファだから、彼女さん? オメガのひと?」

 放置しておいても良かった。たぶん今日じゃなければそうしてただろう。虹夏がどんな勘違いをするにしても、そのうち我慢できなくなってぼっちを問い詰めに行くだろう。それを見るのは面白そうだったし。

 でも、なんだか黙っていられなくて虹夏のそでを引いた。ちらっと頭を上げた虹夏に向かって、ぼそっと正解を教えてやる。

「それ、わたし」

「は?」

「コンドーム」

 今度は反応が鈍かった。ぽかんとしたように見上げてくる。

 ようやく気を取り戻した虹夏は少しあわててから、顔を赤くして文句を言ってきた。

「いたずらするならもう少しマシなのにしてよ!」

「えっ?」

「何なのか知らないけどさ、ぼっちちゃん、真面目なんだから信じちゃうでしょ!」

「え?」

「なんて言って渡したの」

「なんてって……いや、ふつうに」

「ふつう?」

「うん。まさか財布に入れると思わなかったけど」

「リョウがやらせたんじゃないの?」

「いや、わたしは買って渡しただけで」

 虹夏の説教がいまいち噛み合わない。向こうも困惑気味に顔をしかめている。しばらく雲をつかむような遣り取りをしたあと、虹夏はこめかみを押さえながら、手のひらを見せて話を遮った。

「待って」

「うん」

「リョウ、そもそもなんで買ったの?」

「え、なんでって……」

 戸惑う。そこから? と思った。というか、そもそも虹夏はなにか根本的な勘違いをしているらしい。

「虹夏、わたしが罰ゲームかなんかで買って渡したと思ってる?」

「え? 違うの?」

「違う。ふつうに使うため」

「ふつうに?」

 虹夏はわざとらしくゆっくりと復唱した。何の儀式がよくわからなかった。でも、「ふつうに」と言ったことでようやくコンドームの本来の使用方法を思い出したらしい。

 俊敏な動きで立ち上がった虹夏に詰め寄られる。今度は逃げ出そうと思ったのに、反応が遅れたせいで間に合わなかった。結局、ただ数センチ腰を浮かしただけでつかまってしまう。

「ど、ど、どういうこと!?」

「虹夏、痛いって……!」

「いつから付き合ってたの!?」

「くるしい……」

「なんで黙ってたの!!」

「に、にじか、しんじゃう……」

「あ、ご、ごめん……じゃなくて!!」

 ようやく虹夏に解放される。ベッドに寄りかかって息を整える。その間も虹夏はじっとのぞきこんでくる。わたわたと目を泳がせながら。

 わたしは大きく息を吸ってから口を開いた。

「……絞め殺されるかと思った」

「ごめん……で、いつから付き合ってたの?」

「……付き合ってないし」

「え!? 付き合ってないのにえ……エッチしちゃったの?」

「うん」

「な、なんで……ま、まさか……」

 虹夏が突然鬼のような形相になる。その手を振り上げて拳を握りしめている。さすがにそれはキツいし冗談じゃすまない。反射的に頭を守りながら慌てて誤解を解く。

「金はもらってない、ぼっちとしかしてない」

「はあ……?」

「そこまで困ってないし。むしろコンドーム代払ってマイナスだから」

「こっ……ご、ゴム代くらいでドヤ顔すんなっ!」

 今度は一気に赤くなる。間一髪、グーパンチを避けられた。

 深呼吸をした虹夏が机に身を乗り出して声をひそめる。

「ど、どうやってしたの?」

「濡らして挿れた」

 いい終わる前に背中に衝撃が走る。立て続けに。

「バカ! アホ! リョウ!」

「そ、そっちが聞いてきたのに……」

「言い方!」

 パーだから広く浅く痛い。背中がじんじんする。そんなに照れるなら聞かなきゃいいのに。聞きたくなるのはわかるけど。

 咳払いをした虹夏は、声をひそめて続けた。

「どっちが誘ったの」

「まあ、わたし?」

「だよね……痛くなかった?」

「ほとんど」

「気持ちよかった?」

「いや、正直あんまり」

「そうなんだ……手とか口でした?」

「口ってフェラ?」

「だっ……! ……う……うん、そう……したの?」

「しない。汚いじゃん」

「ええ……?」

 困惑気味の虹夏から、さらにいくつか質問される。答える度に眉間のシワが増える。

 一通りの尋問は、あまり満足の行く結果にならなかったらしい。全く答え損だった。虹夏はあぐらをかくと、大きなため息をこぼした。

「付き合うの?」

「なんで?」

「だって、す、好きだからしたんでしょ?」

 こんどはこっちのため息。虹夏まで世の中の恋愛至上主義に毒されてるなんてガッカリだ。いろいろと言ってやりたかったけど、どうせ聞く耳を持たないだろうから短く真実を教えてやる。

「いや、アルファでしょ」

「は?」

「なんか、収まらない日がたまにあるんだって」

「え?」

「その時にたまたまわたしがいたから」

「ええ……?」

 ロマンチスト虹夏のお気には召さないらしい。でも事実だ。片方の眉だけ釣り上げて、口の中で不満そうに言葉を転がしている。

「それだけなの?」

「うん」

「じゃあ、1回だけってこと?」

「いや、ときどきしてる」

「アルファだから?」

「そう」

「……それでいいの?」

「うん」

 虹夏が怯んだように口ごもる。最初だって、偶然みたいなものだったし。そのあとも、毎回じゃないけどぼっちがソワソワしてるときに、気分が乗れば付き合うってだけ。まあ、そうじゃないときでもわたしがしたくて誘ったことはあるけど。

 そういう意味だったら、アルファだったらだれでもいいとか、純粋な知的好奇心だけが理由ってわけでもない。

「まあ、わたしも興味はあったし、ぼっちならいいかなって」

「うーん……」

 虹夏が頰を手で挟んでうなる。ちょっと予想外かもしれない。せっかくこのわたしが素直に本音をしゃべってまで虹夏の気に入りそうなストーリーを教えたのに、考え込むなんて。これじゃ、素直になり損だ。

 少し考えてから、虹夏はため息交じりにつぶやいた。

「無理矢理とかじゃなければいいんだけど」

「うん」

「あんまり……ぼっちちゃんを振り回したらだめだからね」


 虹夏にバラした翌日。なんとなく足はぼっちの家に向かっていた。

 上げてもらってすぐ、ローテーブルを囲んで座る。お茶を出してくれたぼっちにむかって単刀直入に切り出す。

「コンドーム、財布に入れてるの?」

「え……?」

「虹夏から聞いた。財布、ひっくり返したって」

 ぼっちの反応は過去イチ早かった。のけぞった。頭を抱えた。背中から床に転がったと思えば、身体を丸めて揺すりながら唸っている。

「あ、あ、あ、や、やっぱりバレてた……」

「財布なんかに入れるからでしょ」

「で、でも、財布に入れておくと金運が上がるってネットに書いてあったから……」

「うのみにしすぎ」

「そ、そ、そんな……」

「外で使うの?」

「使いませんよ!」

 なげいているのか照れてるのかわからない声で叫ぶ。

 しばらくゴロゴロと転がってからぼっちは何かに思い至ったように表情を青ざめさせる。肘をついて身体を起こしてから、おそるおそる口を開く。

「虹夏ちゃん、なんて言ってましたか……?」

「心配してた」

「え?」

「誰にたぶらかされたんだろうって」

 ほんとのことだ。半分だけだけど。

 ぼっちの表情が緩む。

 わたしは残りの半分を伝えた。

「わたしだって言ったら動揺してたけどね」

「え……? えっ? えっ? えっ?」

「なに?」

「い、言っちゃったんですか?」

「うん?」

「わたしたちがセックスしてること」

「うん」

「あ、あ、あ、あ! 虹夏ちゃんにはバレたくなかったのに!」

 ぼっちの声が暗い。身体を丸めてもんもんとうなってる。

 わたしはぼっちの横に移動して顔を覗き込む。ぼっちは頭を抱えている腕の間からちらりと見上げてきた。

「なに。虹夏に知られるとマズいの?」

「リョウさんは気まずくないんですか?」

 何が気まずいのかわからない。今までバレてなかったのは言ってなかったから。別に隠そうと思って隠してたわけじゃないし。言う必要がなかったら、これからもずっと言わなかっただけだろう。もとはといえば不注意なぼっちが虹夏の眼の前で財布をひっくり返すからいけない。

「仮にわたしが名乗り出なかったら虹夏はぼっちのところにいくだけでしょ」

「うっ……」

「ぼっちがイヤならもうしないけど」

「え……う……い、イヤじゃないですけど……」

「じゃあ、する?」

 顔を近づけてじっと覗き込む。ぼっちはハッと目を見開いた。


 ぼっちはコンドームの袋を手に取ったとき、一瞬動きを止めた。たぶんさっきの会話の流れを思い出したんだろう。思わず吹き出してしまう。これはわたしが悪い。ぼっちが気まずそうに顔を伏せる。そのせいで少しだけしょげさせてしまう。しょげたぼっちをはげますのは中々骨だ。そこに骨は入ってないけど。

寝袋編

 わたしたちの関係を知ったからといって、虹夏がなにか茶々を入れてくるようなことはなかった。バレた直後あたりは、ぼっちと話していると、時々ソワソワ挙動不審にしていることもあった。そんなことしたら余計周りにバレるじゃないかとからかってやったら凹んでいた。それも一月、二月経つうちに自然となくなっていった。

 ぼっちとの関係は付かず離れずというところだろう。のめり込みもしないし、うっとうしくもならない。ぼっちがソワソワしているときに誘うこともあり、わたしがムラムラしているときに誘うこともある。ぼっちから誘ってくることはほぼない。2ヶ月に1度くらいの頻度でぼっちがもじもじしている日に出くわす。黙って観察していると、なにか言いたそうにしたり頭を抱えていたりする。性格を考えたら仕方ないだろう。逆に変な方に調子に乗られてもそれはそれでめんどくさい。

 それに、その時そのタイミングで毎回わたしがセックスしたいとも限らないわけだし。だから、言い出しづらいぼっちのかわりに、優しいわたしがそっと助け舟をだしてあげている。もちろん、その気になれなかったら何も言わずスルーして帰るつもりだ。幸か不幸か、そうなったことはないけど。それくらいの距離感が、わたしたちにはちょうどよかった。

 それに、もともとカラダ目的でぼっちの家に行ってたわけじゃない。バンドのことを話に行くこともあったし、たんに話し相手が欲しくて行ったこともある。たまに練習に付き合ったりセッションしたりすることもあった。行ってみてから、お互いに特にやり取りもせず本を読んだり作業をしたりして帰ってきたことだってある。

 最初の頃こそ、ぼっちはなにかもてなさなくちゃいけないと思っていたフシがある。特に用もないのに話しかけてきたりお菓子を買いに出かけようとしたりとか。面白かったし、もてなされるのは単純に気分がいいから黙って応接されていたけど、ネタ切れになってきたあたりから飽きてきたのでいらないと言ったらぼっちは安心したようにホッと胸をなでおろしていた。

 その反応はそれで少しイラッとしないでもなかった。別に豪華な饗応を強要するわけではないけど粗雑に扱われたいわけでもない。とはいえ、もう年来の付き合いになる。いまさら畏まってなにかするような間柄じゃない。毎日とは言わないけど、練習にバイトに、それなりの頻度で顔を合わせてるんだから。それこそセックスまでする関係なんだし。

 ただ、わたしがぼっちの家に行く頻度はまちまちだった。高校を卒業して暇な時間を謳歌できていたのは最初の内だけで、不足する金を補うために少しずつバイトを増やす羽目になった。結束バンドの売上も少しずつ伸びているはずだけど、まだまだ全然足りないから稼ぎ口を確保しておかなくちゃならない。もっともこっちに関しては虹夏の取り立ては厳しすぎるような気もする。印税収入で暮らしたいとまでは言わないけど、こんなカツカツなものだろうか。詳しい数字を聞いたところで何ができるわけでもないし、変に突っ込まれてもめんどくさいから経理は丸投げしてあるけど、もうそろそろ、もう少し余裕が出てきてもいいんじゃないか。まあ、そんなこと言ったら怒られそうだから黙っている。傍から見て左団扇に暮らせそうなほど売れてから文句を言おう。

 ぼっちの家に行く頻度が高くないのは、時間のせいだけじゃない。実家で一人でいたい時間もあるし、なによりも電車賃がもったいない。往復したらランチ1回分になる。通学じゃないから定期券もそれなりの値段になる。一度計算してみたけど、月の半分も行かないんだからペイするわけがなかった。ただでさえ金欠な今、余計な出費がかさむのは避けたい。歩きや自転車で行くのはしんどい距離だから、仕方がなかった。

 夏になる頃、新曲の話をするためにぼっちの家に行った。ぼっちはいつも通り作詞の作業に苦戦していて、何時間も机にかじりついてノートを炭で埋め尽くしたかと思うと、突然机を拝み始めたり天を仰いだり、よくわからない動作を始めることがある。たいていは無視するけど時々箸休め程度にぼうっと眺めてみる。

 音楽は祈りだと言うひとがいた。もっとも、それはパフォーマンスの話で、コンポジションの話ではなかった気もする。でも原初的にはやっぱり祈りに通じる部分があるんだろう。現代の人間たちは高度な文明を手に入れる代わりに、そういう根本の衝動を忘れてしまった。非合理的な魔術として哂いのネタにしてみたり、逆に抽象的な理論を仕立てて学問の神棚に飾ったり。そして、シンプルな真実に蓋をしてしまった。ただ、ぼっちはそうじゃない。自分の身体を使って表現するところを忘れずに大切にしている。ぼっちは存在が音楽そのものなのかもしれない。そういう生命の根本、人間にとってたぶんいちばん大切なところに生命を通わせている。だからぼっちの歌は心に響くのかもしれない。

 取ってつけたようなくだらない理論をこねていると気が紛れていい。リフレッシュして続きに戻れば作業の進度も維持できる。適当なところでぼっちをつついて昼ご飯にする。遅い昼ご飯を食べてから、また黙々とそれぞれの作業に戻った。

 作業そのものは順調に進んだ。実家と違って邪魔の入りようがないのは快適だ。空き部屋があったらぜひもらい受けたいものだった。

 ただ問題があったとしたら、あまりにも順調に進みすぎたことだろう。お互いに没頭していて時間を気にしていなかった。時間感覚を取り返したのは、日付が変わる直前のことだった。ふと時計が目に入った。そういえば終電の時間を知らなかった。調べてみると、もう10分を切っていた。急いで支度をし始めるとぼっちが振り返った。帰る時間だというと、向こうも慌てたようだった。

 最寄りの地下鉄駅まで、のんびり歩くと15分くらいかかる。たぶん間に合わないだろうと思いつつ、遅延期待で走った。ぼっちは体力がないから、悪いと思いつつ、後において先に駅に駆け込む。改札前に着くと、集まっていた駅員が振り返って終電は終わったと言った。ダメ元で走ってきたから、そんなにショックじゃない。でも困るものは困る。流石にタクシー代が払えるほど手持ちはないし、ぼっちだって似たようなものだろう。よしんば持ち合わせがあったとしても、こんなことに何千円も費やすなんてバカバカしい浪費だ。虹夏はよくわたしの浪費癖を非難するけど、金の使い所が今じゃないくらい、わたしだってきちんと理解している。

 スマホを取り出しながらもと来た道を戻る。階段の上でゼエゼエ肩で息をしていたぼっちを回収する。

 少し待っていると、やっと落ち着いたぼっちが青白い顔を上げた。気まずそうにもごもご尋ねてくる。

「リョ、リョウさん……あの、電車は……?」

「なかった」

 ぼっちの顔からさらに血の気が引いていく。もともと色白なぼっちの顔が二段階も変化するなんておもしろい。もっと白くなるのかもしれない。

「と、東武は……?」

「東武のほうが早いでしょ」

 念のためスマホで調べてはみるけど、やっぱり始発まで待たなくちゃいけない。タクシー代は割増無しで五千円前後。こんなものに課金するくらいならネカフェで粘ったほうがいいだろう。

 ぼっちはしゃがんで頭を抱えながらバスとかタクシーとかぶつぶつつぶやいている。帰れなくなったのはわたしなのにぼっちのほうがショックを受けている。変な話だ。

 わたしはスマホをしまうと、ぼっちを立たせて道を引き返し始めた。

「リョウ、さん……ど、どうするんですか……?」

「いや。ふつうに。始発で帰る」

 ぼっちは不安そうに見つめながら着いてくる。途中のコンビニに寄ってエナジードリンクを物色する。今日は体調も良かったから飲まなくても5時間くらいなんてことないだろうけど、なんとなく徹夜するなら手元にあったほうが心強いものだ。懐具合と相談しながら1本買って出る間、ぼっちはずっと黙ってオロオロしていた。

 アパートが見えてきたあたりからぼっちの動きが一層落ち着きなくなる。エレベーターを降りて家の前につく。足を止めて振り返ると、ぼっちは目を回していた。

「え、えっ??」

「なに?」

「う、うちじゃないですか……?」

「え? うん?」

 ぼっちは中々鍵を取り出そうとしない。どうもわたしの意図がよく伝わってない気がする。仕方ないからあごでドアを指してやった。

「朝まで作業してく。いいでしょ?」

 ぼっちは少しひるんだようだった。でも最終的に鍵を開けて入れてくれた。まあ、まず万に一つもありえないけど、ここで拒否されてたらそれはそれでおもしろかったかもしれない。一番近いネカフェがどこだかわからないけど、たぶん最寄りにはないだろう。そんな大きな駅じゃないし、住宅街だから。一駅歩いていくらか払う手間が増えるかどうかの違いだった。

 徹夜の作業は、昼ほどは順調に進まなかった。疲れているから仕方ない部分もある。明け方まで粘っていたら、途中でぼっちが寝落ちしていた。机に突っ伏したまま寝ているぼっちに布団を掛けてやる。荷物をまとめて家を出る。帰ったと一言メッセージを送っておいて、そのまま駅に向かった。返事が来るのは昼前のことだった。

 始発の席で揺られながら、眠たい頭でひらめきを得た。何も毎回その日のうちに帰らなくて良いわけだ。2日泊まっても3日泊まっても宿泊費がかからない。しかも電車賃が節約できる。あの家はワンルームで、ぼっちも一人暮らししか想定してなかったから布団がないけれど、畳だから寝転がっても1〜2晩くらいなんとかなるだろう。毛布は実家から持っていってもいい。夏冬はしんどいかもしれないけど、秋春ならしのげないこともない。眠たい頭の中では、今世紀最大の発見のように思えた。

 秋も涼しくなりはじめの頃、わたしはそのひらめきを実行に移すことにした。一番困ったのが毛布をどうやって運んでいくかだ。毛布といってもタオルケット1枚だから、畳めば大した大きさにならない。そうはいっても、着替えといっしょに持ち込むとなれば、それが入るだけのバッグがいる。一瞬寝袋で妥協する案も浮かんだものの、せっかく手足を伸ばすスペースがあるんだからわざわざ狭い思いをする必要はない。

 いろいろと考えてから、親に頼んでキャリーケースを出してもらった。何に使うんだと聞かれたから、素直にぼっちの家に泊まると言った。そうしたら、どこからともなく上等な菓子折りを出してきた。実家に挨拶に行くんでもあるまいに、一人暮らしの家に1ダースも饅頭を持ち込んでどうするんだと思う。どうも医者というのは世間一般の常識がないらしい。町医者だから近所の大衆を相手にしてるはずなのに、こんな具合で儲かるんだから楽な商売だ。

 とはいえ、もらえる食い物をもらわない手なんてない。ありがたく頂戴してバッグに詰めておく。夕飯や朝飯の代わりにしたっていいんだし、数は多くて困るなんてことはない。

 一泊二日の用意を整えてから意気揚々家を出る。たかだかぼっちの家に泊まるだけなのに、なんだかテンションが上ってくる。不思議な話だけどワクワクする。

 アパートに到着して玄関に上げてもらうと、ぼっちは目を白黒させていた。

「リョ、リョウさん……?」

「うん。ここ、置いていい?」

「あ、どうぞ……え、えと……それ……?」

「毛布を持ってきたんだよ」

「毛布……?」

「うん。まだ寒くないから、これ1枚あれば寝れると思って」

「え、え……ええ……?」

「あ、これ。つまらないものですが」

 菓子の箱を差し出すと、ぼっちはぎこちない動作で受け取った。卒業証書授与式みたいだ。

「あ、えと、ありかとうございます……」

「母親が持ってけって」

「は、はい……?」

 荷解きと言うほど大層な話じゃない。バッグの中から必要なものを取り出しておく。とりあえず充電ケーブルをつないでスマホを充電したり、試しに毛布を広げてみる。ちょうどいい塩梅だ。わたしが一人寝るには広すぎるくらいのスペースがある。

 いつも通りパソコンを広げていると、ぼっちが菓子折りを持ったまま突っ立って固まっていることに気づいた。せっかくなんだから開けてお茶でもいれたらいいのに。

 じっと見つめていると、ようやく動きを取り戻す。無意味に菓子折りを上げ下げしたかと思ったら、わたしと見比べる。

「なに?」

「あ、その……きょう、1時から、バイトなんですけど……」

「いいよ。どうせうちにいるし」

「か、鍵は……?」

「閉めていけば?」

「リョウさんは……?」

「待ってる」

 何を当たり前の話をしているんだと思う。今日は泊まりに来たんだから、ぼっちのいない間に帰るつもりもない。

「何時に帰ってくる?」

「え……と……6時ぐらいには……」

「わかった」

「そ、それまで、ここにいるつもり……で……?」

「え? いや、泊まるつもりだけど」

「えっ!?」

「うん。だから毛布持ってきたんだし」

「な、なるほど……!」

「着替えとか歯ブラシもあるから。タオルだけ貸してくれると助かる」

「あ、はい……わかりました……」

 ぼっちはそれ以上追求してこない。わたしは満足して自分の作業に手を付けた。

 昼になると、宣言したとおりにぼっちが出て行く。かと思えば30秒くらいで戻ってきて鍵を机に置いた。もし帰りたくなったらポストに入れておいて欲しいと言う。言うだけ言って慌ただしくバイトに向かった。帰るつもりはないんだけど、鍵を貸してくれるのはありがたい。ちょっとコンビニに行きたくなったときとか、流石に鍵を開けたまま外出するのもどうかと思う。他人の家を無人にするほど身勝手なわたしでもない。ぼっちも一人暮らしが板に付いてきたということだろう。配慮が行き届いていて、至れり尽くせりとはこのことだ。あとはちょっとした豪華な料理でも出てくれば何も言うことはない。

 まあ、そこまで贅沢を言うつもりもなかった。時々ぼっちにご飯を作ってもらうことがある。ぼっちの手料理は手堅いものが多い。一人暮らしがベースだから、そんなにこったものをちまちま作ったりすることはない様子だ。ご飯を炊いて多少煮炊きするか、冷食と納豆と卵とか。レトルトだってなんだっていい。温かい食事でおなかがいっぱいになれれば特に文句は言わない。

 結局、バイト上がりのぼっちから連絡をもらって弁当を買ってきてもらった。レンジで温めてご飯を済ませ、ついでに親に渡されたお菓子もつまむ。あんの甘さが控えめでちょうど良かった。その後は、日付が変わるまで作業をしたり練習をしたり。これからの活動の話も少しして寝た。翌日はお互いに予定がなかったから、やっぱり夕方まであれこれと自分のことをして分かれた。

 泊まることを覚えると、ぼっちの家は格段に行きやすくなった。ただ、こっちにもバイトの都合があるし、連泊することはほとんどない。せいぜい1泊がいいところだ。ただ、毎回毛布を持ち込むのも中々面倒くさい。夏はまだしも、冬が近づいてくると流石に寒くなる。かといって上下布団のセットを持ち込むのは無理な話だ。わたしは運転免許も持ってなかったから、手で運び込むのじゃなければ誰かに車を出してもらうしかない。心当たりが虹夏ぐらいしかないけど、こんなことで車を出してくれと頼んだらよっぽど怒られるだろう。

 12月に入ると冷えが厳しいので泊まりに行かなくなった。ぼっちが不思議そうにしているから、毛布じゃ寒いからと教えてやった。そうしたら、1週間もしないうちに寝袋を買ってきた。

 わたしが最初に思いついたのと同じ案だった。ただ、うちにあるやつより少し大きなサイズの寝袋で、そのぶん中の居心地も悪くない。毛布がなくなると荷物が減るのは事実だから、ありがたく使わせてもらうこともあった。

酒とキス

 二十歳になってから、酒を飲む機会ができた。ただ、たいして強くなかったから、せいぜいビールかサワーをグラスで数杯が楽しく飲める限度だった。飲み始めの頃には、居酒屋で日本酒を頼んでひどい目にあった。あれ以来、虹夏がいると、そもそも酒を取り上げられることすらある。

 ぼっちは、そんなわたしを見ていたからか、二十歳のお祝いをしようという話になったとき、酒を飲むか飲まないかで悩んで、一人悶々としていた。飲むか飲まないかで悩むなんてバカバカしい。飲んでみてからどうするか決めるべきだとけしかけたら、不安そうな顔色で不審そうにわたしを見た。ぼっちにそんな顔をされるなんて心外だ。

 結論から言えば、二十歳になってすぐSTARRYの店長たちと居酒屋に出かけた時、ビールを頼んだもののいまいち合わなかったらしい。時間をかけてちびちび飲み干して、2杯目からはソフトドリンクに戻っていた。

 アテが外れたようでガッカリした。20になるまで酒が飲めるようになるのを楽しみにしていた。酒の肴になるような味の濃いものとかクセのあるものは好物だったし、街なかにあるような小さな居酒屋を巡ってみたかったし、酒が飲めたらもっと楽しめるだろうと期待していた。

 自分がたいして飲めないとわかった後も、ぼっちが酒を飲んでくれれば行けると勝手に期待をしていた。酒は飲んでもらって、わたしは料理を楽しめばいい。でもぼっちが酒を飲めないんだったら全部パーだ。2人で居酒屋に入って、どっちも素面のまま出てくるわけにいかない。2人きりで酒を飲んだとして、どっちも潰れたら助けを呼ぶわけにもいかなくなる。

 暖めていた居酒屋巡りの夢がついえたのは残念だった。


 郁代が21になったとき、誕生パーティーで雑多な居酒屋に行くことにした。飲めるやつらがいるんだから飲んでもらわない理由がない。ストックしてあった店を掘り起こしてきて、つきつけた。案の定虹夏はイヤそうな反応をしたけど、主役の郁代を攻略したら勝てる。郁代の説得には手こずらない。思惑通りに狙っていた店に足を運ぶことができた。

 料理は確かに美味しかった。ただ、なぜかぼっちが飲みたがった。つい、つられてわたしも飲んでしまった。ビールは1杯で十分だったから、そんなに強くないサワーとかカクテル系のものを頼む。それでも4~5杯は確実に飲んだから、わたしにしては相当飲んだほうだと思う。

 3杯めあたりから、オーダーが入る度に虹夏が水を押し付けてきた。腹がタポタポだった。トイレから戻ってきた後の記憶が曖昧で、目が覚めたら虹夏の部屋にいた。

 いや、よく覚えていないというのは事実じゃない。机を挟んだ向こう側で、虹夏と郁代がお互いのスマホをのぞき込みながらなにか盛んに議論を交わしていた。MVの話だったような気がする。だいぶ酔いが回っていたから話を聞く気も起きない。かといって飲むのも食べるのもだいぶ満足していて、手を動かすのも億劫だった。

 何かの拍子にぼっちの肩がわたしの肩に触れた。一瞬で離れた後、わたしがぼっちによりかった。眠い目を向けると、ぼっちがじっと見つめてきた。向こうも目が据わっている。無言でじっと見つめ合う。気がついたらキスしていた。ぼっちが舌を出してきたから受け止めた。お互いに加減がわからなくてなめたりしゃぶったり。でたらめなキスをした。というか、真面目にキスなんかしたのは初めてだった。セックスをしているときや終わった後で、申し訳程度に軽く口づけをすることはあったけど、なんとなく気恥ずかしくて本当に付けるまでだった。どうして昨日に限ってあんなことをしたのかよくわからない。

 で。息が続く間じゅうベタベタになるようなキスをして、そのあとは本当に覚えていない。起きたら虹夏の部屋の床に転がされていて、毛布にくるまっていた。4月にしては寒い。寒さで目が覚めたのかもしれない。

 毛布を身体に巻きつけて震えていたら、その内に起きた虹夏が暖房をつけてくれた。部屋は暖かくなったけど、虹夏の視線は死ぬほど冷たいままだった。

 朝飯だけもらってすぐ逃げ出そうと思った。長居しても、どうせまた無意味な説教を食らうだけだし。何より居心地が悪い。変な地雷を踏んで余計な目にあうのもイヤだ。

 荷物をまとめて部屋を出たら、廊下で虹夏が待ち受けている。視線が冷たい。冷えてるんじゃなくて冷たい。凍ってる。今度こそ殺されると思った。足がすくんで動かない。

 虹夏は突き刺すような視線でわたしをにらんだまま、組んでいた腕をほどくと右のてのひらを見せてくる。

「三千円」

「え?」

「昨日のお金、三千円。払ったら帰っていいから」

 黙って財布を開けて恐る恐る金を渡す。千円札を数え終わると、虹夏は身を引いた。

 虹夏はそれ以上引き止めてこなかった。機嫌が良かったのかもしれない。ラッキーだ。急いで実家に帰って、シャワーを浴びた。着替えながらメッセを送って、返事は見ないままぼっちの家に向かう。

 家に上がると、ぼっちは気まずそうな雰囲気で黙っている。

「昨日のことだけど……」

 覚悟を決めて口を開く。ぼっちは神妙に目をつむったままそろそろと頭を下げて床に寝そべった。いや土下座だ。たぶん土下座なんだろう。両手を机の下に投げ出して、上半身を畳に付けて、腰をつの字に上げている。上半身が低いほどいい土下座だと勘違いしているのかもしれない。

「すみませんでした……」

「いいから。顔上げて。キスしたあとのこと、覚えてない。何があったか教えて」

 とにかく情報収集が先決だった。地面に寝ているぼっちを起こさせて話を聞き出す。ぼっちはしょんぼり目をつむったままゆらゆらしゃべった。

「え、えと……リョウさんが、わたしに、抱きついたまま寝落ちしたんですけど……虹夏ちゃんにはがしてもらって……喜多ちゃんがお会計してくれて……リョウさんのお金は虹夏ちゃんが立て替えてくれて……お店の入口で別れて……帰りました……リョウさんは虹夏ちゃんが背負ってて……虹夏ちゃんが、おうちに連れて帰るって言ってました」

「うん。虹夏に泊めてもらった」

「虹夏ちゃん、なにか言ってましたか……?」

「なんにも」

「うう……やっぱり怒ってる……」

「いや、怒られもしなかったけど」

「え?」

 ぼっちが期待と懇願のまなざしを開く。

 残念だけど事実はそう甘くない。

「扱いは冷凍庫並だったけどね」

「あ、あ、や、やっぱり……」

 ぼっちが燃え尽きたように崩れ落ちる。わたしも姿勢を崩して壁に寄りかかる。

「郁代は?」

「え?」

「グループも見たけど、あれだけなの?」

 スマホに視線を落とす。昨日の深夜近く、結束バンドのグループで郁代が心配そうなメッセージを送ってきている。虹夏とぼっちから無事帰宅した旨の返信があって、喜んでるスタンプを返したところで動きが止まっている。

 ぼっちが身体を丸めてスマホをいじりながらのろのろ返事をしてくる。

「あれって……えっと……そう、です……ね……?」

「目の前でディープキスしてたのに?」

「ううっ……す、すみません……」

「いや、まあ……とにかく。ひっくり返って大騒ぎしそうなのに」

「あ、えっと……それが……虹夏ちゃんは、すごく慌ててたんですけど、喜多ちゃんはそんなでもなくて……」

「え?」

「むしろ、率先してお会計したり、服がベタベタだったのをふいてくれたり……笑ってるだけで、結構、冷静だったと思います……」

「ええ? 写真は?」

「しゃ、写真?」

「郁代、写真」

「あ……たぶん、撮ってなかったような……スマホ、手にとってすらいなかった気が……」

「えっ、なんで?」

「え? なんで、って……?」

 ぼっちが上目遣いで見つめてくる。困惑している。こっちも同じだ。ひっくり返って大騒ぎするか、はしゃいで連写するかしそうなものなのに。いや、虹夏と同じでウブなのか、それともこういうネタは守備範囲外?

 二人で黙って考えてみても、郁代が何を考えてたかなんてわかるはずがなかった。かといって聞き出そうとするのは面倒くさいし、変なところをつついて蛇が出てきても困る。仕方がないからこの話は蓋をしておこうと決めた。


 その後、4人で顔を合わせる時にはヒヤヒヤしていた。でも、どちらもあの時の話をしてこなかった。助かったと思った。ぼっちと2人で胸をなでおろしていた。

 安心してすっかり忘れていたまま5月を迎える。虹夏の誕生日が近づいて、グループメッセージで郁代がその話を振った時、虹夏からわたしにメンションが飛んできた。店の希望があったら教えろというわけだ。わたしは喜び勇んでお店のストックリストを開いた。横にいたぼっちが不安そうにおろおろしていた理由はわからなかった。

 意気揚々と店に着いて席に座った時、すぐ後ろにいたぼっちとの間に、突然虹夏が割り込んできた。

「リョウ、きょう、飲む気?」

「え? なんで?」

「飲むの? 飲まないの?」

「少しなら飲むけど……」

「ならぼっちちゃんは向こう側」

 虹夏がぼっちを押しのけてわたしの隣に座る。郁代が手をぼっちの手を引いて、わたしの正面に座らせる。

 郁代にかばんを奪われたぼっちが、不安そうに目を揺らしていた。

「ひとりちゃん、どうしたの?」

「え、えと……どうして……?」

「どうしてって、リョウ先輩がまたキスしたくなったら困るじゃない」

 ぼっちは頭を抱えて壁際に縮こまる。わたしは動揺してまじまじと郁代を見つめてしまった。虹夏がニヤニヤ笑っているのに気づいたとき、ぼっちがうめき声を上げ始めた。

「あ、あ、あ、あ……! や、やっぱり……!」

「ひとりちゃん? だいじょうぶ?」

「だ……だいじょぶ……ないです……」

「どうして?」

「ごめんなさい……もうお酒は飲まないから、許して……」

「許すもなにも、怒ってないわよ?」

「じゃ、じゃあ、なんで……」

「それは……」

 郁代が苦笑いを浮かべて虹夏を見る。虹夏はぼっちを見て、わたしを見た。わたしの顔を鼻で笑った。

 流石に堪忍してくれと思う。でも逆の立場だったら多分そうするだろう。虹夏は手早く注文を済ませると、ビールを飲みながらこの間の話に手をつけた。針のむしろというのはこういうことを言うんだろう。

「喜多ちゃん、ぜんぜんびっくりしないんだもんなー」

「いや、あれでも結構動揺してたんですけど」

「そうなの?」

「だって半個室みたいなお店でしたけど、外から丸見えだったじゃないですか」

「そこ?」

「しかもちょうど店員さんが通った直後でしたし」

「まーねー」

 虹夏が時々こっちを伺いながらニヤニヤ笑っている。郁代も郁代で、なんでもないことのように会話なんかしている。ぼっちは顔面蒼白のままヘラヘラ笑ってる。愛想笑いのつもりかもしれない。でも人間は楽しい時に笑いながら拳を握りしめたりしないはずだ。

 気が気じゃない。飲んでも全然酔わない。味もわからない。楽しみにしていたはずの料理も同じだ。家で輪ゴムでもかんでたほうが健康にいいかもしれない。

 虹夏がオムレツをつつきながら、悔しそうに尋ねている。

「喜多ちゃんは知ってたの?」

「いや。まあ、なんとなくそうなのかなって」

「いつから?」

「え? だいぶ前ですよ。一昨年とかじゃないですかね」

「ええ、すご。なんで?」

「えーっと……うーん……言葉にしづらいんですけど、距離感っていうか……」

 郁代が思案がちに答えている。最初に違和感を覚えたのは、わたしたちが初めてセックスをした年の暮れだと言うんだから驚いた。やっぱり人付き合いが多いとそういうのってわかるものなんだろうか。いや、わたしだってなんとなくこの二人は怪しいと思う時はあるけど、的中率はほどほどだ。今回はたまたまかもしれないし、顔を合わせる時間が長いからかもしれない。

「お姉ちゃんもおんなじこと言ってたもんなあ」

 鈍感な虹夏が唇をとがらせながらつぶやく。その言葉に機敏に反応したのはぼっちだった。

 うつむいてしずしずとサラダをつまんでいたぼっちが、口に物を詰め込んだまま、勢いよく顔を上げる。虹夏が気づいて見つめ返すと、顔を上げたり下げたり。前世はハトだったのかもしれない。しばらくそうしてから、やっと飲み込めたらしく、一つ咳払いをしてからおずおず尋ねた。

「て、店長さん……?」

「うん?」

「店長さんにも、バレてたんですか??」

「え? うん。みんな気づいてたぽいけど」

「み、みんなって、どこまで……?」

「えーと、お姉ちゃん、PAさん、やみさんでしょ、あと、えーっと……」

 虹夏が身近な人間の名前を挙げる度、ぼっちの顔色が悪くなっていく。キョロキョロして、こっちを見た。見られても何も言うことはない。虹夏のときとは違って、こっちはわたしもノータッチなんだし。

 虹夏が凹ましたぼっちを、郁代が慰める。いつもならちょっとおだてれば調子に乗るところが、今回はよほど響いたらしい。なかなかもとに戻らない。

「ほーら、ひとりちゃん、元気だして?」

「むりです………」

「ドリンクいる?」

「はい……」

「お酒にする?」

「ウ、ウーロン茶……」

「全然飲まないのね」

「きょう、飲んでも回らないです……」

「そんな緊張しなくていいのに」

 緊張するなというのは無責任だ。そっちがけしかけてきたんだからそっちで後始末をして欲しい。ぼっちは目を白黒させながらドリンクを飲んだり、フードを食べたりしている。わたしはだいぶ疲れてきていて、飲み物も食べ物も手が動かなかった。

「ぼっちちゃんたちがあんな情熱的なキスしてるなんて思わなかったな」

「うっうっ……」

「伊地知先輩、それは2人がかわいそうですよ」

「き、喜多ちゃん……?」

「でもこのリョウとそのぼっちちゃんだよ? 想像できなくない?」

「虹夏ちゃあん……」

「え、でもあのときってリョウ先輩からいきませんでしたっけ?」

「うっうっうっ…………」

 ぼっちのうめき声を飛び越して虹夏と郁代が話をしている。名前が出てきたあたりでやめろと思った。トイレに逃げたくても出口を虹夏に塞がれている。こうなるとわかってたなら最初に席に座らなけりゃよかった。

 そのうち、虹夏に酔いが回ってきたのか余計な話をせがみだした。しかも、郁代のフォローが功を奏したのか、ぼっちが元気になってきたタイミングだった。

「いつもあんなベタベタになるほどチューしてるの?」

「えと、は、初めてだったから、よくわからなくて……」

「初めてなのにあれ??」

「あ、あはは……なんか……むらむらしちゃって……?」

「へえ。やっぱりお酒って怖いねえ」

「そ、そうですね……」

「気持ちいいもんなの?」

「え、えーっと……ど、どうでしたか……?」

「ええ……? いま振る?」

「だ、だ、だって……」

 話しかけてきたぼっちがしょげかえる。黙り込んでしまった。やらかした。虹夏が期待を込めた視線を投げかけてくる。郁代も黙ってじっと見つめてくる。さすがにしんどい。だんまりを決め込んでお茶に口をつけていたら、虹夏も諦めたらしい。肘で小突いて、話題を変えていった。


 地獄のような飲み会が終わって帰路につく。重い体を引きずってなんとか電車に乗った。新宿で、ぼっちは埼京線に乗り換える。階段の下で見送ろうと立ち止まったら、隣の虹夏がわたしとぼっちを見比べながら素っ頓狂な声を上げた。

「えっ??」

「なに?」

「リョウ、帰るの?」

「うん?」

「ぼっちちゃんの家に行かなくていいの?」

「えっ? なんで?」

「なんでって……」

 虹夏が口ごもる。郁代が吹き出す。階段を振り返ると、ぼっちがよたよたと駆け上がっていって人混みに消えた。思わず舌打ちが漏れた。

「虹夏さあ……」

「ごめん」

「エロい虹夏にはわかんないかもしれないけど、毎日盛ってるわけじゃないから」

「ごめんて。スネないでよ」

「スネてないけど?」

「めんどくさいなあ」


 酒が飲みたいわけじゃないけど、酒のつまみは食べたい。1度は自分で作ってもみたけど、準備も片付けも面倒だし量の調整が難しかった。レシピ通りに作っても食べたいものができるわけじゃないのに、味を調整しようとすると濃すぎて残してしまう。結局、居酒屋の料理が食べたいとなると酒が飲める人に連れて行ってもらうしかない。わたしたち二人だけじゃできないことだった。

 居酒屋には行きたい。でもそのたびに虹夏や郁代にからかわれるのはごめんだ。ぼっちはわたしより飲めるみたいだから、ぼっちに1杯飲ませて飯を食えばいいと思うんだけど、ぼっちはかたくなに飲みたがらなかった。

 居酒屋巡りは半ば諦めていたころ、ぼっちとふたりで中華を食べに出た。正確には中華料理を食べに行こうと誘ったわけじゃない。ラーメン屋だと思って行ってみたら中華料理屋だっただけだ。ネットのジャンル分けは時々あてにならない。そのあてにならなさが逆に成功するときもある。ラーメンはやめにして適当な料理をみつくろう。思ったより麻婆豆腐の味付けが油っぽくなくて好ましかった。

 だいたい料理がはけてきた頃、ぼっちがソワソワしていたからメニューを渡してやった。スマホに通知が出ていたから、流し見をしながら適当にあしらってやる。そのまま、ぼっちを待つつもりで暇つぶしのゲームを起動した。Wi-Fiが解放されてる店だったから助かる。

 しばらく黙ってメニューを眺めていたぼっちが、視線を手元に落としたままぼそっと小さな声を出した。

「……リョウ、さん」

「ん?」

「……お酒、飲みますか?」

「んー……? えっ?」

 タップする場所がずれて、思わずスマホを弾き落としそうになる。顔を上げると、ぼっちはメニューを見つめたままヘラヘラと奇妙な笑みを浮かべた。

「あっ、ごめんなさい、忘れてください……」

「なにが?」

「な、なんでもないです……あっ! このジュース、珍しいな! これにします! リョウさんは、ウーロン茶でいいですか? そ、そうだ。て、店員さん、呼びましょう、とりあえず……」

 ぼっちがヘラヘラしたまま呼び出しボタンに手を伸ばす。とっさにその下をかいくぐってボタンを手元に引き寄せた。ぼっちの指が空を切る。われながらいい動きだった。

 机をトンと爪弾いたぼっちが、怯えるように顔を上げた。困ったような、頼りないような、不思議な視線を投げかけてくる。わたしは手元のボタンを弄りながら、小さな声で答えた。

「飲んでもいいけど?」

 ボタンを見つめながらだったから、ボタンに向かってひとりごとを言ったように見えたかもしれない。でもぼっちは、机を指さしていた手を握りしめて、息を呑んでいる。

「……リョウさん?」

「したいの?」

 ゆっくり、それとなく尋ねる。ちらっと目線を上げると、ぼっちははっきりうなずいた。わたしは息を吐いてボタンを机に戻した。

「リョウさん……?」

「メニュー。見せて」

「は、はい……」

「何にするの?」

「え、えと……じゃあ、ビールで……」

「ん」

 メニューに目を通しながらボタンを押す。どれでも良いと目についたサワーに決めて注文を済ませる。

「ありがとうございます……」

「1杯飲んだら出るから」

「は、はい……」

 出てきたレモンサワーは、心なしかアルコールが強かった。


 何度もセックスをして慣れてきたからだろうか。酒が程よく理性を飛ばしてくれたからかもしれない。あるいは飲んで家に行くまでの時間が、ちょうどよい焦らし効果をもったからなのかもしれない。とにかくよくわからないけど、その日は前になく盛り上がった。

荷物編

 朝起きたら虹夏から電話がかかってきた。電話のコールに起こされた。眠い目をこすりながらスマホを引き寄せる。半ば夢現の気分は、つながるなり飛び込んできたがなり声で吹き飛ばされた。

『バカヤロウ!! なにしてんだよ!!』

「うるさ……」

『ああ?? 寝起きか??』

「うん……?」

『おまえ……待て。実家にいるのか。よし。ぼっちちゃん……』

 虹夏の声が遠ざかる。ぼっちと一緒にいるらしい。向こうがどこにいるのかはわからない。でも、周りがさわがしいから屋外だろう。会話の中身は切れ切れにしか聞こえない。なんの話題だか全くつかめなかった。

 ため息をこぼして寝返りを打つ。切って寝てやろうかと思った。人の安眠を妨害しておいて謝罪もないなんて虹夏は畜生だ。怒ってるみたいだからやめておく。行儀よく通話したまま画面を見ると、メールが何件か来ていた。どうせ広告だろうと消し始め、今朝来たばかりのメールに目が止まる。

 背筋がヒヤッとした。慌てて飛び起きる。

「ねえ、虹夏? 虹夏、聞いてる?」

『……のっちゃって…………から……』

「お〜い、に〜じか〜?」

『……いい…………だよ……いいから……』

 話しかけても返事はない。どうもぼっちとなにかやり取りしてるらしい。ぼっちの反応がわからないけど、たぶんこっちの思う通りのものではないだろう。

 ソワソワしながら会話の終わりを待つ。バシンと勢いよくドアの閉まる音が聞こえる。雑音がさえぎられると当時に、ドスのきいた声が戻ってくる。

『リョウ』

「あの、に、虹夏……?」

『いまから、そっち行くから』

「え、えっと……」

『ふざけんなマジで。逃げんなよ。逃げたらおまえの部屋の入口塞いでおくからな??』

 まくしたてるだけまくしたてると、一方的に切った。オフラインのピロンという音を最後に、気持ち悪くなるような静けさが襲ってきた。

 思わず頭を抱えた。完全にミスった。いや、荷物が来ることは理解してたけど、今日だと思ってなかった。わかってたら先回りしてぼっちの家で待ち受けてただろう。あたりまえだ。わたしが買ったものなんだから。それに、一番安い送料を選んだから届いただけじゃ使えない。運んで組み立てる必要がある。そういえばぼっちに知らせてなかった気がする。それにしても虹夏に通報するなんてひどい話だ。わたし宛にして頼んだんだから、荷物の持ち主であるわたしに連絡するのが筋じゃないか。後で文句を言ってやれ。スマホを手に取る。いや、荷物が届いた直後にぼっちから2回、ご丁寧に30分間隔を置いて不在着信があった。なんで起きなかったんだろう。虹夏からも3回着信があった。わたしを起こしたのは3回目だったわけだ。もっと早く目が覚めていたらもう少しマシだったかもしれない。全ては後の祭りだった。

 こうなったら待つしかない。何分でつくんだろう。電車なら1時間もかからない。向こうは車らしいし、全然時間が読めない。マップを立ち上げて調べてみる。こっちの住所と向こうの住所は登録してあるからすぐに出せる。1時間弱らしい。混雑具合によるからもう少しかかるかもしれない。いや、虹夏は相当キレてるから飛ばして来るかも。事故ったら説教は回避できるけどバンドの将来が危うい。さすがに自分の身の安全とバンドメンバー2人の命を天秤にかけないくらいの思いやりはある。でもやっぱりいやだ。ケガしない程度に事故って欲しい。あるいは渋滞に巻き込まれてクタクタになってくれたら軽くすむかもしれない。

 そんな事を考えているうちに刻一刻と虹夏たちが近づいてくる。ぼっちはなんて言ったんだろう。その言い方次第ではとばっちりかもしれない。いや、虹夏はぼっちに甘いところがあるから、もしかしたらドライブ中にうまくなだめてくれたりしないか。まあ無理だろう。虹夏の怒りの対象はわたしなんだし。さすがのぼっちも何も言えないに違いない。

 どう弁解したら虹夏をなだめられるだろうか。正直に全部話せば許してくれないか。いや、どうせ火に油を注ぐだけだろう。そもそも虹夏はなぜ怒り狂っているんだろう。ちゃんと測って収まるサイズのものを買ったはずだ。わたしが居合わせさえしたら、その場で組立ててすぐ使えるように置くつもりだった。キッチンの向こうの隅のあたりがちょうどいいと思っていた。ぼっちが組み立てようとしてなにかやらかしたとかだろうか? いや、ぼっちの性格的に、勝手に人の荷物を開けたりはしないだろう。たぶん始末に困って虹夏を頼ったんだ。わたしが起きてさえいれば先回りできたのに。状況はどうやったてわたしに不利だ。なんとか虹夏をなだめるか納得させる方法を考え出さないといけなかった。

 あれこれ言い訳を考えていたら、また電話がかかってくる。正直出たくない。でも居場所がバレてるから居留守も使えない。これ以上現実逃避のネタもない。しぶしぶ通話に応じると、着いたから出てこいというわけだ。観念してとぼとぼ迎えに行くと、虹夏とぼっちが機材車の横に立っていた。のろのろ玄関を出ていたら、門の向こうに仁王立ちをしている虹夏に怒鳴られる。

「おっせえぞ!!」

「にじか、おちついて……」

「うるせえ!! 早くしろ早く!!」

 このまま牛歩したら近所の誰かが通報してくれるかもしれない。いや、流石にバンドメンバーに前科をつけさせるわけにいかない。なにせ原因がわたしの買い物なんだし。大人しく門を開けると、虹夏にどやしつけられる。車の中からみのまき状態の荷物が出てくる。ガムテープがぐるぐる巻いてある。どっちかが1度開けたらしい。人の荷物を勝手に開けるなんて非人道的なことをする。これでチャラにならないか。チラッと虹夏を見る。ならなさそうだ。怒りで黙り込む虹夏から荷物を押しつけられた。

 届いた荷物を虹夏とふたりでうちに運び込む。ぼっちはそわそわしているだけで何もしてくれなかった。薄情者だ。いや、手伝いたそうにしては両手を握りしめてうろうろしていたから、たぶん虹夏になんか言い含められていたのだろう。やっぱり悪いのは虹夏じゃないか。だいたい、荷物一つを運ぶだけなんてハイエースの無駄遣いもいい話だ。中がガラガラだった。こんな立派な車を買うなんて贅沢だ。スズキのワゴンでも買わせればよかった。そしたらたぶん入らないから、うちまで持ってくるなんて発想にはならなかっただろう。

 部屋に荷物を移動させて終わると、怒り狂った虹夏に壁際まで追い詰められた。

「おまえさ。買う前に家主に確認取る程度の手間もとらないわけ? しかも黙って買って黙って届けるか、ふつう? 百万歩譲って買ったなら買ったですぐ連絡するもんだろうが!! だいたい『後藤方 山田リョウ』じゃねえんだよ。家賃も払わねえくせに居候気取りやがってバカヤロウ! ご丁寧に後藤の電話番号まで書いてさ、おまえ、他人の都合とか考えない? 考える頭もないのか?? いきなり佐川の電話が来て『山田様宛の本棚です』って言われたぼっちちゃんの気持ちを1度でも考えようとしたことがあるか?? 本が届くのとは違うんだよ! 本棚だぞ本棚!! しかもこんなばかでかい本棚を一人で勝手に決めて買うやつがあるかコノヤロウ!!! あたしが呼ばれて行った時のぼっちちゃんの姿を見たかよ。一人じゃ運べなくて、しかなたく玄関で中開けて、それでもどうしようもなくなって外で呆然とうずくまってたぼっちちゃんの気持ちとか、おまえみたいなバカには永遠にわかんねえだろうけどな。わかるわけねえよなあ。何の連絡もなく本棚なんか買って届けるほどバカなんだから! あげく、のうのうと昼まで高いびきかよ! ぼっちちゃんがどんだけ困ってたか知りもしないでぬくぬくと過ごしやがってずいぶんといいご身分じゃねえかこのクソヤロウ!!」

「ね、寝坊しちゃって……」

「おまえが受け取りゃいいって話じゃねえんだよ!! なめくさってんじゃねえぞおまえ!! あそこはおまえの部屋じゃねえんだよ、ぼっちちゃんの家なんだよ!! だいたい買う前に測るんだよ、ふつうの人間は! 家の中に置けもしないもの買ってどうすんだよ!!」

「は、測ったし……」

「おまえあれか? ワンルームに本棚だけあれば人間生きていけると思ってるバカか? どこのどいつが本棚だけのワンルームで生活してんだよ! 部屋の寸法だけ測って満足してんじゃねえぞ。そもそもおまえの倉庫じゃねえんだよ。ぼっちちゃんの家なんだよあそこは! 帰って寝て起きる家なんだよ。他の家具と床のものはどうすんだよ!!」

「片付ければ……」

「じゃあいまからあたしがここにあるもの全部まるっと片付けてやるよ! 今日から本棚眺めて床で寝てろオオバカヤロウ!!」

 虹夏の怒りは収まる気配が見えない。いままでもいろんな目にあっては来たけど、ここまで怒らせたのは指折り数えても1度あるかどうかくらいだった。うまい具合にやり過ごすしかない。でもなにか言えば火に油を注ぐのは明白だ。かといって黙っていたらそれはそれで怒るだろう。八方塞がりだった。

 なんの方法も思いつかない。逃げ出すにしても行き先がない。わらにもすがる思いでぼっちを振り返る。部屋の片隅で小さくなっていたぼっちが、不安そうに見つめてくる。

「リョウさん……?」

「片付けたら置けるよね?」

「え、えと……」

「置けるよね?」

「あ……た、たぶん……?」

「本棚欲しいって言ってたの、ぼっちだよね?」

「え、えと……ま、まあ、欲しいかどうかでいえば欲しい、よう、な……?」

「ほ、ほら、ねえ、虹夏……?」

 上目遣いに見つめると、般若の面を彷彿させる表情の虹夏が手を伸ばしてくる。もう逃げられない。襟首を捕まれる。地面にさよならする5秒前だ。

「い、いたいいたいいたい……」

「いい度胸だなあオイ。この上ぼっちちゃんをダシに使うか??」

「く、く、くるしい…………」

 息が詰まってきた。気が遠くなりそうだ。今日が命日らしい。享年24。ジェイムズ・ディーンと同い年じゃないか。死因は買い物だけど。

 虹夏の腕を押さえていた手がしびれてきた頃、ぼっちの声が聞こえた。虹夏の力が緩む。地面に落とされて尻餅をつく。これはこれで痛い。でも生きてる証だ。

 咳をしながら見上げると、ぼっちが虹夏に取りすがっていた。

「に、にじっ……虹夏ちゃん、もういいんです……!」

「ぼ、ぼっちちゃんは被害者でしょ!?」

「そ、そうですけど……でも、いいんです、虹夏ちゃんのおかげで運べましたし……」

「そうじゃなくて!!」

「ほんとに……あ、あの、自分が入れなくなっちゃったら困ってただけなので……もう、リョウさん、こんなことしないでしょうし……」

「甘やかすとつけあがるの、こいつは! 前のあたしの部屋を見たでしょ!」

「に、虹夏ちゃんのお部屋とちがってわたしの部屋には本棚がないので……」

「ちゃんと、断らなきゃダメ! 際限ないんだから!」

「で、でも、ちょうど収納が欲しいって話、してたのはほんとですし……」

 珍しかった。ぼっちがわたしを積極的に擁護してくれる。虹夏はぼっちに甘い。理由になってるのかどうか怪しい、しかもしどろもどろな弁明に丸め込まれてくれる。旗色は明らかにぼっち優勢だった。

 天佑だ。ぼっちがいなかったら、たぶんわたしは死んでいただろう。おかげで命拾いした。ぼっちは命の恩人だ。

 ひとしきりの問答を終えた末に、虹夏は大きなため息をこぼしてわたしを睨んだ。

「謝って」

「え……?」

「ぼっちちゃんに謝って」

「えっと……」

「謝るんだよ。いまここで!」

「ご、ごめんなさい」

 心を込めて頭を下げる。ぼっちはずっともじもじしている。ちらっと虹夏をうかがう。虹夏は大きなため息をこぼした。

「何が悪かったかも言え、アホ」

「ええ……えっと、本棚、勝手に買って、ごめんなさい」

「バカ!!」

「わざとじゃないんだって……!」

「真面目に謝れ!!」

 虹夏の鉄拳制裁を、間一髪のところで避ける。今回は意識してたわけじゃない。「勝手に買って」と言ってからダジャレに気付いただけだ。

 改めて頭を下げた後、虹夏はひときわ大きなため息をこぼした。

「百万歩譲って届く前に片付けておくの。届いてから片付けるやつがいる? 泥棒を見て縄をなうって言うんだよ、そういうの。しかもあんなに床散らかしてて、ほとんどリョウの私物だったくせに。どうするつもりだったの?」

「……売ればいいし」

「ここにある物全部片っ端から売っぱらってあげようか??」

「……ごめんなさい」

 わたしをにらんでいた虹夏が大きな舌打ちをする。それからまたぼっちにお小言を言って車に戻っていった。


 虹夏が帰った後、ぼっちと2人で届いたばかりの本棚を囲む。なるほど立派な本棚だ。2万以上かかっただけのことはある。でもうちに来てしまったらどうしようもない。ぼっちと虹夏の言葉を信じるならば、幅が広すぎて置き場所がなかったらしい。

「入って突き当たりにおけないの?」

「ええ……?」

 わたしが最初想定していた場所を口に出すと、ぼっちが困惑した表情を浮かべる。

「えと、その、そこって、いま、わたしのギターが置いてあるところですよね……?」

「え? そうだっけ?」

「はい」

「前は衣装ダンスの隣に置いてたのに?」

「えと……リョウさんのお泊まりセットを置くようになったから」

 ぼっちに言われてぼんやり先週のやりとりを思い出す。一々持って行くのがめんどうだからと着替えを含めた日用品を置いたんだった。玉突きでいろいろ移動させたんだろう。頭の中の地図が古いままだった。

 わたしが床に座ってため息をこぼすと、ぼっちが隣にしゃがんでくれる。

「あ、あの、リョウさん?」

「なに?」

「今度、ちゃんと本棚選びましょう」

「ぼっち……」

 すこし恥ずかしそうにしながらもぼっちがにこりと微笑んでいる。わたしはじっとぼっちの顔を見て、また足下の本棚を見た。

「……これは?」

「これは流石に……」

「なんで……」

「た、高さがあって怖いですし。寝る場所がなくなっちゃうような……あっ、こことかに置いたらいいんじゃないですか……!」

合鍵編

 バイトの前に荷物を置かせてもらおうと思ってぼっちのアパートに立ち寄る。下についてからメッセージを送った。少し待っても反応がない。試しに電話もかけてみたけど出なかった。これじゃドアを開けてもらえない。

 プレイリストをうろうろしながら待つ。まだ時間に余裕はあるから焦る必要はない。ただ、泊まるつもりで家を出たのと、親からお土産を渡されてきたので荷物が大きい。いつまでもぼうっと道路脇に突っ立ってるわけにもいかない。既読もつかないからスマホを見てないんだろう。ぼっちの返事が遅いのは珍しい話じゃないけど、既読が遅いときは寝てるかバイト中か、練習かなにかに没頭しててスマホを見ていないときと相場が決まってる。どちらにしても、すぐに開けてもらえそうにはなかった。

 足元のキャリーケースを見る。いつもより一回り大きなやつだった。大きくなった理由の大部分は親に渡されたお土産だ。少し前に珍しく旅行に行って、せっかくだからとはりきったサイズのものを渡された。これだから世間知らずは困る。いや、ただの親バカかもしれない。わたしだってもう子供じゃないのに、エサをたんまりよこせばなつくと勘違いしてるんだから始末に終えない。ぼっちに愚痴でもこぼしながら食らいつくしてやろうと思って来たのに、こんなときに限ってぼっちが出ない。マーフィーの法則というやつだ。少し考えたらよく起こりそうなことだけど、不思議とこれまで予定がバッティングしたことはなかった。たまにはこんなことがあるほうが飽きが来なくていいかもしれない。

 とはいえ運ぶ手間が増えてしまった。まあ、更衣室の隅にでも置かせてもらおう。こっちのバイト先のオーナーは、STARRYの店長と違って気前がいい。前にも小さい方のキャリーを置かせてもらったことはあるし、土産物もあるから文句も言わないだろう。

 キャリーを引きながら道を引き返す。まだ行くには早すぎる。どうせ時間があるなら、少し喫茶店にでも寄ってから出勤しようと思った。最寄りの駅まで移動して、手頃なカフェを探す。候補になりそうな店がいくつか出てくる。こういうときは直感が頼りだ。ざっくり写真を見比べる。駅前から1本路地に入ったところにある店にピンときた。コロコロ引きずりながら向かう。中に入った途端、当たりの感触がある。程よく薄暗く、圧迫感がない程度に狭い。ランチセットが950円。ボリュームもあって満腹感がある。マスターは常連と仲良さそうに話している。こちらには特に注意を払っていない。かといってぞんざいにあしらわれるわけでもなく穏やかな物腰でもてなされる。実にスマートな店だった。

 ちょうど良いくらいに時間を潰して会計を済ませる。怪我の功名とはこのことだ。喫茶店を出た直後になって、ぼっちからメッセージが届いた。夜勤明けで寝ていたらしい。終わったら泊まりに行くと返事をして、心地よい満足感とともにバイト先に向かった。

 暇なような忙しいような時間が終わってぼっちの家に引き返す。街なかのコンビニらしくほどほどに客が来たり来なかったりする。

 アパートについてメッセージを送ると、今度はすぐに反応があった。エレベーターを降り、家に上げてもらう。いつもの場所でキャリーを開けてお土産を渡す。受け取ったぼっちはしげしげと眺め渡してからぼそりと口を開いた。

「あ、あの、リョウさん……?」

「ん?」

「も、もしかして……その格好でバイトに行ったんですか……?」

「え? うん」

「荷物も……?」

「そうだけど」

 格好なんていうから今日はそんな奇妙な服を着ていただろうかと思ったら、キャリーの話だったらしい。まあ、このキャリーを使うのは珍しいから少し驚かしたかもしれない。でも不釣り合いなほどバカでかいものじゃない。

 なにかそんなに変なデザインだろうかと、ためつすがめつしていたら、ぼっちがお土産を持ったまま深々と頭を下げてきた。

「す、すみません……」

「え?」

「あ、その、昼前に、電話くれたのって、その、荷物のこと……ですよね……?」

「ああ。うん。そうだけど」

「すみません……起きてたら……そこに置いといてもらえたんですけど……」

 ぼっちの頭がどんどん下がる。収穫の時期が近そうだ。いや、気づけば膝を折ってうずくまっている。お土産の箱を強く握りしめるものだから紙がくしゃくしゃになりそうだった。

 ちょっと引いてしまう。まあ、でもぼっちらしいといえばらしいのかもしれない。隣にしゃがんで慰めてやる。そんなに落ち込むほどの話じゃない。たまたまタイミングが悪かっただけだし。これが、雪の降る中で何時間も締め出されたとかだったら流石に堪えるけど、たかだか荷物を持って行って帰ってきただけなんだから。それでも心底申し訳無さそうにうつむいて黙り込んだまま、なかなかもとに戻らない。

 結局その日は、落ち込むぼっちを励ますだけで日が暮れてしまった。

 あの日から一月経って涼しくなってきた頃、わたしが家に上がると、ぼっちは落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返していた。流石に気が散る。何かあったのかと思って見守っていたら、5分くらいしたところで、急にテーブルに突っ伏してうなり始めた。いくら慣れてきたとはいえ、家につくなりこれはなかなかホラーだ。なにかヤバめの事件でもあっただろうか。いや、最近は平和だったはずだ。少し思い返してみても思い当たるネタが無い。

 困惑しつつ黙っていると、また急にぼっちが身体を起こす。それから部屋の隅に行って、バッグの中をごそごそやったかと思えば、何かを取り出してしずしず戻ってくる。

「あ、あの! リョウさん、これ……」

 おずおずと差し出してきたのは新品の鍵だった。何かよっぽどヤバいものが出てくるのかと身構えていただけに虚を突かれる。キラキラ輝く削りたてのそれを手のひらで受け止めながら思わず首をかしげた。

「鍵?」

「あ、その、合鍵です」

「なんの?」

「この部屋の……」

「ええ?」

「こないだみたいなことがまたあったら申し訳ないですし……お泊まりセットも置くようになって、リョウさん、よく来てくれるようになったから、こんどからあんなことも増えるかもしれませんし……あと、最近単発のバイトを時々入れることがあって、たぶん、ああいうことも、増えると思いますので……」

 しばらくぼそぼそと、なんのいいわけだか弁解だかわからない言葉を口の中で転がしている。黙って聞いていたら、そのうち静かになってしまった。

 自信なさそうに手元を見つめるぼっちと、ひんやりした鍵を見比べる。言われてみれば、あれば便利なのは本当だから、くれるというならもらっておいても損はしないだろう。これまでみたいに家主が家を空ける度に鍵を借りる必要もなくなる。ポストに入れ忘れて持って帰る心配も無い。

 別に鍵が欲しいわけじゃないんだけどと言いかけて飲み込んだ。ぼっちの表情があまりにも頼りなさ過ぎる。そんなことを言って突き返したときには、きっと立ち直れないくらいのショックを受けることだろう。なんで急にこんなものをと驚かないでもないけど、せっかくだからとありがたくちょうだいすることにした。それで、ぼっちは少しホッとしたようだった。

 鍵をもらったからといってぼっちの家に行く頻度があがるわけでもない。そもそも行くか行かないかを決めるファクターは、鍵の有無じゃなくて交通費とスケジュールなんだから。ただ、鍵があるおかけでこれまでと違うやりとりをする機会はできた。たとえばぼっちに買い物を頼まれるとか。だいたいは弁当だ。わたしがぼっちの帰宅より先にアパートに着く場合に、夕飯を買っておこうかと提案すると、よろしく頼まれることが多い。

 ある日、スタジオに入ろうとしたところで話し声が聞こえた。郁代の声だ。誰かと話している。電話かと思った矢先、ヘラヘラ笑いながら答える声が耳に飛び込む。ぼっちが相手らしい。ただ、なにやら様子が変で、雲行きが怪しかった。

 物陰に立ちどまる。そろそろと移動する。郁代が深いため息をこぼして湿った声で尋ねた。

「お金かかったでしょ?」

「あ、でも……そ、そんなに高いものじゃないですし……」

「いくらかかったの?」

「え、えと……たいした額じゃなくて……」

「いくらかかったの?」

 身を乗り出さないように様子をうかがう。手鏡を握って角度を変えると、郁代の背が見えた。ぼっちを向こうの壁側に追い込んでいる。どちらの表情もよくわからない。でも郁代の声が普段より少し落ち込んでいるというか暗いというか。ぼっちはいつもどおり頼りない。

 こぼれそうになる絶望を飲み込む。郁代まで金の話をするようになったら結束バンドは終わりだ。虹夏だけで百人分くらいうるさいんだから。やれ出費を抑えろだのいくら足りないだの、貯金がどうこうと。とにかくケチだしうるさい。いままで、郁代は、そんな虹夏の行き過ぎをほどほどにたしなめてくれてたじゃないか。郁代まで緊縮派に転向したらわたしの味方はぼっちだけだ。ぼっちは対虹夏用の兵器としては優秀だけど、あれは限定バフみたいなもので、しかも連射ができない。郁代がわたしを攻撃してきたら、だれが守ってくれるんだ。盾がなくなるじゃないか。

 ソワソワしそうになる手を抑えていると、ぼっちがまたヘラヘラと場違いに笑った。

「え、へへ、いっ……いくら、だったかな……?」

「いくらかかったの?」

「え、ええ、っと……そ、その……たしか……えと、ひゃく……あ、や、やっぱり、せ、千円……とか……?」

「教えて。いくらだったの?」

「あ、あ、あの……よ、四千円……です……」

 郁代に静かに詰め寄られて、ぼっちはあっけなく降伏した。終わりだ。首都陥落。さようなら、わたしの楽しい青春時代。さようなら、結束バンド。

 大きなため息が聞こえる。ぼっちが息を呑んでいる。いや待て、四千円って何を買ったんだろう。最近ぼっちが新しいアイテムを手に入れていた記憶がない。なにか豪華なディナーでも食べに行ったんだろうか。どうして誘ってくれなかったんだ。いや、給料日直前だから誘われても奢りでなければ行けないんだけど。

 しばらく黙っていた郁代が、またやんわりと話し始める。

「結構するじゃない」

「で、でも……ないと、不便で……」

「どうして?」

「わ、わたしが、いないことも、ありますし……」

「……なら、質問を変えるわね。どうして急に作ろうと思ったの?」

「あ、その、リョ、リョウさんと、最近ニアミスしちゃって……」

「どんな?」

「そ、その、わたしが、寝てて、リョウさん、入れなくて……」

「よくあること、よね?」

「え、えと……わたし、最近、バイト先が変わって……その……」

 ぼっちの弁明はしどろもどろだった。でもなんとなく全体が読めてきた。合鍵って四千円もするのか。まあ、そういわれたらそんなものなんだろう。

 しかし、虹夏と違って、郁代はしつこいみたいだ。いや、対ぼっちに関しては、虹夏が甘すぎるだけだろう。郁代は冷静にあれこれと聞き出している。でもやっぱり変じゃないか。ぼっちが合鍵を作ろうが作るまいが、郁代に渡すわけじゃないんだから根掘り葉掘り聞き出す必要はない。あるいは、わたしに対してなにか思うところがあるとか?

 それなら直接話しに来てくれたほうが手っ取り早い。なんなら今ここで出ていってもいい。隠れて聞いてたのは悪かったし、少し気まずいけれど。

 物陰に潜んだまましばらく考えていた。その間も郁代の尋問は続いた。ぼっちはだんだん元気がなくなっていった。さすがにそこまで問い詰めるのは可愛そうじゃないか。

 そろそろ止めに入るか無視してスタジオに入るか悩んでいたら、やっと郁代の審問が終わった。もう一度、深い深いため息が聞こえる。

「……荷物がどうこうって話してたから、あれって思ったのよ。まさかと思ったけど、ほんとに合鍵作って渡しちゃうなんて」

「あ、そ、その……喜多ちゃんに、言われたから、じゃなくて……」

「え?」

「渡したら……そ、その……リョウさん、もっと来やすくなりますし……来てくれるかな……て……ちょとだけ、そんなことも、考えてて……あの、こないだの、ニアミスの前から……最近、よく、来てくれてて、わたしも嬉しいですし……ありがたいですし……」

 ほっちがヘラヘラした奇妙な笑い声混じりでなにか言っている。途中から小さくなってよく聞き取れなくなる。

 なんだ、ぼっちにしてはずいぶん可愛らしいことを言うじゃないか。いやいや。ぼっちは実際可愛らしいいきものだ。時々バグって不穏な動作をするけど。一昔前に流行ったペットロボットみたいなものだといえばわかりやすいかもしれない。

 しばらく黙って聞き入っていた郁代がなにか話しかけている。ぼっちにつられて声が小さくなったせいで、もうほとんど聞き取れない。話の内容も把握できたところで興味を失う。ふたりの話が終わるまでそっとしておこう。わたしは先にスタジオに入ることにした。

オナホ編

 郁代とぼっちの話を盗み聞きした日からしばらくの間、ぼっちの家に行けない日が続いた。シフトやライブの都合で偶然行くタイミングがなかっただけで、なにか思うところがあったわけじゃない。

 ある昼番の日に家を出る時、ふと久しぶりにぼっちの家に立ち寄ろうかと思った。明日の予定がたまたまない日から、たまには顔でも見に行こうと思いついただけだった。

 出勤の電車を待ちながら一応ぼっちの予定を聞いておく。それほどまたずに返信がある。今日は向こうもバイトのシフトがあるらしい。帰りが遅くなるから弁当を用意しておいて欲しいという依頼つきで。承諾のスタンプを送ってアプリを落とす。このやり取りも久しぶりな気がしてくる。実際いつぶりだか気になる。もう一度立ち上げてメッセージをさかのぼる。ぼっちとのやり取りはそんなに多くないからすぐたどり着く。久しぶりと言っても一月経っていなかった

 バイト上がりに最寄りのチェーンで2人分の夕飯をテイクアウトする。歩きながら、なんというわけでもなくあのやりとりのことを考えていた。

 郁代の言葉を信じる限りでは、合鍵を話題に出したのは郁代が先らしい。どういう文脈だかわからないから、何の目的でその話をしたのかも知らない。ただ、ぼっちが嘘をついてないんだとしたら、郁代のその言葉は最後の藁一本であって、合鍵を作る計画自体は、ぼっちの中にあったということになる。

 どうも、わたしの全然知らないところで勝手に何かが進んでいる気がする。困った話だ。余計な気を回さないで欲しい。別にわたしたちはただのバンドメンバーなんだから。

 考えているうちにアパートに着いてしまった。部屋に上がったもののやることがない。折りたたみテーブルを開いて夕飯を置く。温かいうちに食べてもいいけど、そんなにお腹が減っていなかった。ぼっちが帰ってくるまで待ってやろう。そのままごろりと寝転がる。

 あと2時間弱一人の時間がある。暇だ。やらなきゃいけない仕事もない。本でも読もうかと思ったけどちょうど買ったものは一通り読み終わったところだった。新刊リストを見ていてもどうもピンとこない。

 寝返りを打ってスマホを手放す。うたた寝をするほど眠くはない。かといってどこかへ出かけるほどの気力もない。時間も遅いから、いまさらどこかで小休憩と洒落込むわけにも行かなかった。

 特に意味もなく起き上がって部屋を見回す。お泊まりセットをしまってあるボックスに近寄って中を改める。待ってる間にシャワーくらい浴びてもいいかもしれない。

 お泊りボックスの横に雑に積んであるのはわたしの私物だった。ここも、前回来たときから手を付けていない様子だ。もともとぼっちはわたしの荷物には手を出さない。崩れた時でもわざわざ連絡をよこしてきたりしていたくらいなんだから。

 無意味に入れ替えたり、詰み直したりしていたら、特に意味もない独り言がこぼれた。

「掃除でもするか」

 口から出たとたんに名案な気がしてきた。正面に座り直して、積んである小物に手を付ける。といっても大したことをするわけじゃない。せいぜいホコリを払うくらいのものだ。

 しばらく自分のものをやっつけたついでに、その周り、さらにその周り、床とか壁とかにも手を伸ばす。

 ぼっちの物は相変わらず少ない。日用品とギター、パソコン、ヘッドフォン。必要なものだけかき集めたような感じだ。別に多趣味になってあれこれ買ってこいとは言わないけど、もう少し物欲があるのが普通なんじゃないか。いや、そんな世の中の普通みたいな尺度じゃ計り知れないんだ。ぼっちは、本人がそれを望んだかどうかはさておき、そういう普通の範囲に収まるような道を歩いてこなかった。これなかった。本人がどんなにそうだと言いはったって、そうはなれなかった。その結果がいまの結束バンドなんだから。

 風呂場周りを掃除していたときだ。手元に熱中していて、腰か尻のどちらかがなにかに当たった気配があった。動きを止めたけど、すぐ軽いものが崩れ落ちる音が聞こえた。

 ため息をこぼして振り返る。日用品入れが傾いて、中のものが床に広がっていた。トイレットペーパーとかナプキンとか。たまにやる気を出すとこれだ。まったくよくできている。付け加えると、割れ物のボトル類がひっくり返らなかったところも含めて満点だ。ハナマルをくれてやろう。

 日用品入れのバスケットを手にしゃがむ。元あっただろうところになんとなく突っ込んでいく。

 ポケットティッシュを拾ったとき、見覚えがあるようなないような物が転がっていった。手を伸ばしてキャッチする。あまり出くわさないような、どこかで触れたような感触だ。

「なんだこれ」

 しげしげ見つめる。大きな文字が目に飛び込む。その横に小さな文字が並んでいる。ぱっと見、中のものがわからない。どこにでもあるような手のひらサイズより一回り大きな袋。目を凝らすとブランド名が書いてある。思わず首をひねってしまった。

 1度でも文字として認識してしまうと、どうしてもそこに意識が向いてしまった。これがあること自体は、別に驚くような話じゃないはずだ。ただ、なんとなく気まずくなる。いや、黙っていればそれきりなんだけど。別に、ぼっちがどう処理しようがわたしの知ったことじゃない。まあ、児童買春とか強姦は止めて欲しい。犯罪に手を染めてバンドが潰れたら元も子もない。ぼっちにそんなことする度胸なんてなさそうだけど。

 しばらくためつすがめつしてから、なるべく元通りに隠しておいた。たぶんぼっちならこうするだろうという当たりに。こんなわかりやすいところにしまうなんて、よくよく考えたら不用心な話だ。ぼっちのそういう奇妙な素直さ、わかりやすさというのは、高校の頃から変わっていなかった。

 その日、ぼっちが帰って来てから一緒にご飯を食べた。わたしがどことなく気も漫ろだったからだろう。ぼっちには少し心配をかけたようだった。

 翌日は合わせの練習があった。翌々日、STARRYのバイトが終わったあとのことだ。

 帰ろうとしていたら虹夏に呼び止められる。振り返ると、じっとわたしの顔を覗き込みながら静かに尋ねてくる。

「リョウ、このあと、時間ある?」

「ええ……?」

 時間はもちろんあった。あとは帰るだけなんだから。帰ったら、せいぜいシャワーを浴びるか夕飯を食べるかして寝るだけだ。でも面倒事はゴメンだ。適当にごまかそうかと思った。ただ、気がついたら郁代が背後に回っていた。結局、質問なんて形式的なものだった。

「……あるけど」

「じゃ、ちょっとうち寄ってってよ」

「……なんで?」

「いいからいいから」

 虹夏に押されて店を出る。階段を上がって、虹夏の家に連れ込まれる。こういう日に限ってぼっちがいない。いてくれたら盾にして逃げられたかもしれないのに。

 部屋に拉致されて早々、虹夏がストレートに尋ねてきた。

「なにがあったの?」

「いや、別に……」

「ほんとに?」

 虹夏の表情は、怪しむというか心配するというか。そんなに変だったんだろうか。自分のことなのに、自分じゃわからない。郁代に目をやると、こっちもこっちで黙り込んだままじっと見つめてくる。

 わたしは少し考えてから、一昨日見つけたブツの話をした。

「一昨日、ぼっちの家に行ったときに、うっかり小物入れひっくりかえしちゃったんだけど」

「うん?」

「ティッシュの間に隠してあったオナホ見つけちゃって」

 虹夏が吹き出す。郁代はきょとんとしたまま見つめてくる。

「なに?」

「その、オナホってなんですか?」

「えっと……」

 わたしが口ごもると、虹夏がため息をこぼしながら助け舟を出してくれた。

「男の人が使うおもちゃだよ」

「おもちゃ……?」

「だから、男の人がオナニーで使う、こう、入れたり出したりする……」

 虹夏が苦笑を浮かべたまま、拳を握って上下に振るジェスチャーをした。それで気づいたらしい。郁代がバツの悪そうな顔になった。

「ごめんなさい。ほんとに知らなくて……」

「いや。いいよ。喜多ちゃんはそのままでいて」

「ええ……?」

 郁代は少し不満そうだ。なにが不満なんだろう。世の中には知らなくたってなんの害もないようなことが溢れてるのに。

 虹夏が身を乗り出してきた。

「で?」

「え?」

「それで、どうなったの?」

「いや。なにも」

「なにも?」

「うん。元通り隠して終わり」

「ふーん?」

 虹夏が底意地の悪い笑みを浮かべた。

「なに? 一丁前にショックなんか受けたってこと?」

 虹夏に言われて言葉に詰まる。そんなことないとは言い返せなかった。思ったよりダメージを受けているっぽいのは、そうかもしれない。でもなんでそうなるのか。別にぼっちがオナホのひとつやふたつ持ってたっておかしなことじゃない。ぼっちはアルファなんだから。しばらく合わなかったら溜まるものもあるだろう。それを全部わたしにぶつけられたって困る。むしろ、わたしとセックスするようになる前までは、一人で処理してたはずなんだから。

 あの日だってたまたまだった。なんならわたしが黙って帰宅していたら、たぶんこんな関係にはならなかった。向こうの準備が整っていて、こっちがたまたまその気になったから始まっただけの、なんの意味もない、なんのオチもない、なんの理由もない、ただそれだけの関係。

「リョウさ」

 虹夏がポツリとつぶやく。苦笑いは浮かべたままだった。

「ぼっちちゃんと、その話、してないんでしょ?」

「う、うん……」

「しなよ。とりあえず」

「ええ……?」

「変な話じゃなくて。モヤモヤするなら、ちゃんと話しなよ」

「う、うーん……」

「ここであれこれ邪推したって仕方ないんだし。まあ、なんかあったら相談して」

 奇妙だ。虹夏が優しい。でも優しさを逆なでする必要もない。

 わたしは、ただ黙ってうなずいた。

 翌日、またぼっちの家に向かった。ぼっちは普段通り出迎えてくれた。おおよそ気づいてないんだろう。結局おかしくなっていたのはわたしだけだった。

「あの……リョウさん?」

「なに?」

「お昼……どうしますか?」

「なにかあるの?」

「その、スパゲティー、まとめ買いしたので、ゆでようかと思ってたんですけど……」

「もらっていい?」

「あ、はい。わかりました」

 ぼっちが台所に向かう。手を洗いに洗面所に向かう。道すがら、サッとあの場所を確認する。小物入れは先日と変わらない様子でそこにあった。一番奥に隠してあるはずのブツがまだそこにあるかどうかまではわからない。

 簡単な昼飯を済ませてから、片付けを手伝う。一通り済ませて畳に座ったぼっちを見つめる。きょとんとした顔をあげている。

 わたしは、思い切って切り出した。

「オナニーしたでしょ」

 言い方がずいぶん素っ気なくなってしまった。いや、むしろそのほうが自然かもしれない。一周回って自然すぎて不自然かもしれない。でもいまさら飲み込む事もできない。ただじっとぼっちを見つめる。

 ぼっちは、たぶん最初何の話だかわからなかったんだろう。そりゃそうだ。いきなりそんなことを言われたら誰だってついてこれない。首を傾げそうになって固まった。キュッと目を丸くする。それから、落ち着きなくキョロキョロして、座り直した。

「え、えと……?」

「オナニー。昨日したんでしょ」

 ヤケクソでたたみかける。ついでにカマをかけてみた。外れたって失うものはないんだし。いや、いっそ外れてくれたほうが気楽だった。

 ぼっちは目を回した。腰を浮かしかけて、自分の足につまづいたらしい。前のめりになってテーブルに墜落する。勢いよく畳に転がる。頭だが額だがわからないところを抱えてうなっている。

 びっくりして二の句が継げない。ビンゴだった。やめてくれ。べつに当たりを引きたくてカマをかけたんじゃない。当たるのは新曲と宝くじだけでいい。こんなところで運を使ってどうする。どうもチグハグだ。最近はずっとこんなだった。

 しばらくうなっていたぼっちが、ようやく起き上がった。蒼白な顔で握りしめた拳を見つめた。かと思えば、すぐに力を失って畳に突っ伏す。

 その下から、力のない謝罪が聞こえた。

「……ご……ごめんなさい」

「いや別に……謝るようなことじゃないでしょ」

 ぼっちが両手で顔を覆っている。指の隙間から見つめてくる。目が揺れて、今にも泣き出しそうだった。

「あの……お、怒ってます、か……?」

 そんなことを聞かれても困る。知らないと答えそうになる。

 でもあと一歩踏みとどまった。

 本当にそうだろうか。いや、腹が立ったわけじゃない。呆れたわけでもない。それがある事自体は、本当に別にどうでもよかった。わたしとセックスするようになる前だって、ぼっちにはぼっちなりにすることがあっただろう。わたしが性の目覚めだったと言われたら逆に困惑する。まあ、わたしが罪な女なんだとしたら、それはそれで1本くらい映画になるかもしれないけど。それを望んでいたわけじゃない。

 余計なことを考えるのは止めよう。いまはぼっちのことを考えるべきだ。

 わたしは、少し考えてからゆっくり言葉を選んだ。

「いや。別に、怒ってるわけじゃないと思う」

「え……?」

「うん。なんだろ。驚いたっていうか」

「そ、そうですか……?」

「いや……その、ぼっちがオナニーしてても全然いいんだけど」

「え、えと……?」

 ぼっちが困惑した眼差しを向けてくる。わたしは考えながら、なるべく率直な話を心がける。

「こないだ、帰りを待ってたときに、うっかりあのバスケット、ひっくり返しちゃって」

「え……?」

「で……その、テンガ、見つけちゃったんだけど」

「あ、あ……!」

「なんか、思ったより引きずってる感じで。理由が……わかんないんだけど。とにかく、ごめん。これはわたしが悪かった。ごめん」

 頭を下げる。頭を上げる。ぼっちは上半身を起こしている。

 次の言葉がないらしく、しばらくパクパク口を開け示している。目を回しながら、またべったりと畳に寝そべる。ごろりと寝返りを打って、ようやくのろのろ起き上がり、机に戻ってきた。

「あ、あの……しばらく、リョウさん……忙しそう、だったから……その……無理に来てもらうのも、悪いなって、思ってて……」

「うん」

「……あと、その……手だと……うまく、い、イけなくて……試しに買ってみただけなんです……」

「そうなの?」

「はい……」

「じゃあ、初めてってこと?」

「は、はい……」

 ぼっちはうなずく。ひどく落ち込んだようだった。

 まさかそんなに気にすると思わなかった。いや、まあ、それをいいだしたらかわいそうだろう。ぼっちの側からしたら、精一杯隠していたものを暴かれたわけなんだから。

 しばらくさみしそうに手もとを見つめていたぼっちが、ぼそりとこぼす。

「ほ、ほんとに……怒ってない、です、か……?」

「いや。うん」

「じゃ、じゃあ、なんで……?」

「なにが?」

「いや……その……」

 言葉を濁している。空気が妙だ。ぼっちは気にしいがすぎる。わたしはまだうまく自分の気持ちをまとめられない。でもいますぐ解決なんてできそうにない。埒が明かない。

 ため息を飲み込んで身を乗り出す。ビクッと肩を揺らしたぼっちが顔を上げる。じっと、その瞳の見つめながら、わたしはゆっくりと口を開いた。

「わかった。じゃあ、ぼっちはわたしに何して欲しい?」

「え……?」

「ぼっちのしてほしいこと、ひとつするから。何して欲しい?」

 これで手打ちにしようと思った。この際だからなんでもいい。よっぽどのことを言われたら考えないといけないけど、ぼっちのことだからそうはならないだろう。ご飯をおごるのでもセックスでもいい。まあ、昼飯が終わった後で、昨日オナった直後だから、どうなるかわからないけど。

 じっと見つめていると、ぼっちはあたふたし始めた。突然過ぎたかもしれない。でも、他にどんな解決策も思いつかない。

 しばらく待っていたら、ようやくその瞳が正面に戻ってきた。ぼっちが、おずおずと口を開く。

「あ、あの……」

「うん」

「リョ……リョウさんが、して欲しいこと、教えてください」

「え……ええ……?」

「あ……ご、ごめんない……めんどくさい、ですよね……ちょっと、考えるので……少し時間を……」

 ぼっちがヘラッとした笑顔を浮かべる。

 違う。そうじゃない。わたしはそっと手を伸ばして、ぼっちの手を握った。ビクリと肩を揺らしたぼっちの目をのぞき込みながら、少し考える。

 その言葉は、自然にこぼれていった。

「じゃあ、見せてよ」

「え……?」

「まだ残ってるでしょ?」

「あ……え……えと、はい……」

ルームシェア

 わたしたちの関係は、それからも変わらなかった。バンド活動を続けて、ときどきセックスをする。わたしがぼっちのアパートに行って、毎回するわけじゃない。ただ新曲や音楽の話をして終わることも多かった。セックスをした日は、泊まることもあったし、昼に済ませて夜は帰ることもあった。虹夏が大学を卒業して、結束バンドの活動がある程度安定してからも、ぼっちとわたしは同じような時間を過ごしていた。

 ある日、ぼっちのアパートで夕飯を食べていたときだった。ご飯を口に入れてから、しばらく無意味にもぐもぐしていたぼっちが、ゴクンと飲み下して顔を上げた。

「あ……あの、リョウさん?」

「ん?」

「今度、内見についてきてほしいんです」

 手が止まる。まじまじとぼっちを見つめてしまう。ぼっちもひとつうなずいただけでじっと見返してくる。

 間があって、やっとぼっちの言葉を理解する。寝耳に水だ。

「え? 内見? 引っ越すの?」

 ぼっちはまたひとつコクンとうなずく。急にそんなことを言われても困る。荷物もあるんだし――最初に浮かんだのはそれだった。ぼっちの部屋に出入りするようになって6年目、音楽関係のものも、それ以外のものも持ち込んでいたし、わたしの知らない間に親が勝手に来て置いていったものもたくさんある。それに、まだ届いてない荷物もある。それらを持って帰るのだけでも一苦労なのはすぐ想像できた。

 わたしが口を開く前に、ぼっちがスマホを手に取る。なぜか両手でスマホをぎゅっとつかんだまま、聞き取りにくい早口でまくし立てはじめる。

「いい加減、部屋がせまいなって思って、最近時々部屋も見てたんですけど、登戸に2DKで6万のアパートがあって、乗り換えもなくなりますし、あと、リョウさんのお布団も……リョウさん、結局寝袋も使ってくれませんし――」

 ぼっちはその後もしばらくブツブツやってから、やっと気が落ち着いたらしく、一口お茶を飲んだ。

「今週は予定が合わないんですけど、次の次の木曜の午後ならいけるそうなので、リョウさんにも見に来てほしいんです」

 バッとしゃべったぼっちが口をつぐむ。じっとわたしを見つめる。でも、あまり早口で言うから飲み込めない。

「待って待って待って」

「え?」

「いきなり結論に行かないで」

「はあ……」

「引っ越すの?」

「はい」

「ここの荷物は?」

「運びます」

「わたしのものは?」

「それも運びます」

「わたしの、布団って?」

「買います」

「なんで?」

「だって、リョウさん寝袋使わないじゃないですか。わたしだってお布団で寝たいです。ちゃんと体を伸ばして……それに、自分の布団の横で寝袋に入るの、なんだかさみしくて……かと言って毎回帰られるのもちょっと傷つきますし、申し訳ないですし……」

 ぼっちは尻すぼみに言った。

 どう答えていいのかわからなかった。だって、引っ越しに巻き込まれる可能性自体を考えてなかったから。

 この部屋が狭いのはわかっているし、その原因がわたしなのも、まあわかる。ぼっちは、なんだかんだいってものをそんなに増やさないから。

「ワンルーム?」

「2Kです」

「広さは?」

「あんまり変わらないかもしれません。ちょっとだけ広がるかも……」

「じゃ、いいじゃん」

「だめです」

 ぼっちは両手を広げてぐるりと部屋を見回す。つられてぐるりと見回す。たたんだ布団、スタンドのギター、パソコン、ヘッドフォン、本棚代わりのカラーボックス、2人で使うには少し狭い折りたたみテーブル。

「この机も、前は広げっぱなしにできてたじゃないですか」

「それは、そうだけど……」

「リョウさんはお布団で寝るからわからないかもしれませんけど、寝袋だと寝返りを打つのも一苦労なんですよ」

「でも、広さは変わらないんでしょ」

「部屋を分けたらこうはならないと思います」

 部屋の広さによる。片方を寝室にしてもう一方を居間にしようってことなんだろうけど。ここより狭くなるんじゃいつかパンクするに決まってるし。

 ぼっちがやっとスマホを手放す。それからつばを飲み込んで、ぐっとテーブルに身を乗り出した。ゆのみをひっくり返さないで欲しいと思っていたら、じっとこちらを見つめながらおずおず、でもはっきりした声で、ゆっくり口を開いた。

「で、3万です」

「え?」

「折半して3万です」

「3万って?」

「6を2で割って3万です」

「……なにが?」

「家賃は、一人、月3万です」

 珍しくぼっちは強気だった。怯みもしなけりゃ目をそらしもしない。何をどう聞き返しても「3万」だと言う。

 夕飯中なのに、ご飯が不味くなるような話をしないでほしかった。なんとか話題を変えて、すっとぼけて、やりすごそうとした。おかずをほめたらお礼を言われる。でも「3万」と付け足す。ギターをほめても「3万」。今夜の予定も「3万」。明日の天気も「3万」。新曲のネタも「3万」。試しにお米が硬すぎると文句をつけても「3万」。もうそれしか言わないと決めたらしい。

 こっちも引っ込みがつかなくなる。しばらくあれこれかわそうとした。一応質問には答えがあるから会話は成立してることになる。でも最後にかならず「3万」だ。

 いい加減話題が思いつかなくなる。辟易して黙り込むと、ぼっちもじっとわたしを見つめたまま黙っている。いつのころからか、ぼっちの目をまじまじと見つめ返す機会が増えている。まあ、いまさらそれをいやがるような仲じゃない。やることも一通りやってきたわけだし。

「……払えってこと?」

 いやいやながら口にすると、ぼっちはハッキリとうなずいた。

「はい」

「……急にたかられても困るし」

「でも、もう寝るスペースがないんですよ」

「……売ればいいじゃん」

「売ったそばから買うじゃないですか」

「……怒んないでよ」

「お、怒ってなんかないですよ」

 ぼっちが慌てたように手を振り回す。不思議にホッとした。ぼっちは怒ったり責めたりしていると思われることをいやがる。

 この方面で泣き落としたら落ちるかもしれないと一瞬思った。思っただけで止めた。きょうのぼっちは強気で手こずりそうだった。ここまであれこれ言い合ったので疲れていた。もう今年の分のセリフは全部言い終わったくらいに。まだ5月なのに。

 わたしは、ちゃわんを机においてため息をこぼした。

「お互いに3万出し合って、ルームシェアってこと?」

「……そうです」

「……考えとく」

「……わかりました」

転居

 ぼっちに最初に連れて行かれたアパートは、駅からの道がわかりにくい。止めにしようと言ったらぼっちはしょんぼりしてたけど、わたしは駅まで15分も裏路地みたいな道を歩きたくなかった。ふたりで一月かけて探し直す。不動産屋のホームページはとにかく分かりづらい。めんどくさいから安い順にして上から見ていこうと言ったら止めて欲しいと泣きつかれる。

 虹夏に愚痴をこぼしたらたたかれる。虹夏は一貫してわたしの敵だった。慰めなんか期待したのが間違いだったかもしれない。郁代も郁代で、聞くだけ聞いて励ますだけ。中立を気取っている薄情者だ。

 何軒か見比べてようやく2Kのお手頃なアパートを引けた。引っ越しは虹夏に掛け合って車を出してもらうことになった。もちろん、郁代も着いてきて、結局4人で物を動かすことになった。

「リョウ、ここらへんのもの捨てなよ」

「なんで」

「こんなの使わないでしょ」

「使うかもしれない」

「いつ?」

「いつか」

「んなこと言ってるから物が減らないんでしょ」

 虹夏にどつき回されながらする引っ越しは割に合わないと思う。でも業者を頼むのは金がもったいない。

 新居に荷物を移し終えてから、そのままの流れで打ち上げをやる。4人とも酒が飲めないわけじゃなかったけれど、虹夏は車があるし、わたしたち2人も疲れていて飲む気分にならなかったから、ソフトドリンクとピザでささやかに夕飯を食べただけだった。

「気にしないでいいのに」

「いや、でも一人だけお酒ってさみしいじゃないですか」

「そう?」

「そんな酒乱じゃないですし」

「酒乱って」

 虹夏が笑う。郁代も笑う。わたしたち二人はくたびれはてていたから、部屋の隅でひっそりと肩を寄せ合って黙っていた。

 しばらくするとぼっちが寝てしまった。郁代がベッドに運んでくれる。潮時だから、そろそろお開きになるだろう。わたしだって眠かった。

 わたしは何の気なく虹夏を見た。帰ると言ってくれると思って。虹夏は、座ったままマジマジとわたしの顔を見つめて、ぼっちを起こさないよう小さな声で言い放った。

「5万だからね、毎月5万」

 何の数字だか、流石にわからないふりもできない。家賃、光熱費。食費はこれまで通りとして、毎月5万、追加の出費。結束バンドの売上はそこそこある。でも足りない。けして安い額じゃない。バイトを増やさないといけない。

 虹夏は鼻で笑って付け足した。

「滞納したら天引きしてぼっちちゃんに渡すから。十一で」

「ええ……?」

「安いくらいなんだから」

「5万は痛いよ」

「いいかげん痛みを知れ、バカ」

 そう言って、虹夏が笑いながら肘で小突いてくる。

「年貢の納め時ってとこでしょ」

「え?」

 思わず固まってしまう。その反応で虹夏は笑いを止めた。

「なに?」

「でも、アルファだし」

 ぼっちはアルファだ。それもフェロモン・コントロールがあまりうまくないらしい。だから、ときどきわたしがセックスで発散させているだけ。何も知らない相手より、よく知ったわたしのほうが都合がいいはずだから。だからといって、こっちもいやいや付き合ってるわけじゃない。

 お互いに都合がいいから。居心地がいいから。それ以上の関係にはならないから。

 わたしの言葉をどう受け取ったのか、虹夏は黙り込んだ。黙ったままじいっとわたしを見つめていた。見つめ返すのは怖かった。でも目をそらすのはもっと怖かった。

 しばらく無言の時間がある。やがて、ボソッとつぶやかれた言葉が、妙にまっすぐにわたしの中に突き刺さる。

「それ、ぼっちちゃんに向かっても言える?」

「え?」

「ぼっちちゃんに面と向かって、アルファとは付き合えないから分かれる、同棲止める、って言える?」

 虹夏の目には力がこもっていた。でもどこか寂しそうだった。

 言いたいことはたくさんある。同棲じゃない、ルームシェア。そもそも付き合ってなんかない。ギターとベース。作詞と作曲。居心地がいいから一緒にいるだけの関係。わたしたちはいつでも引き返せる。

 でも一言しかしゃべれない。

「……違うし」

 虹夏の目は追いかけてこなかった。一瞬、またたたかれるかもしれないとおもった。殴られるかもしれなかった。でも、虹夏はどちらもしない。乾いたため息が聞こえる。

「ズルいよ、それは」

新居の生活

 2Kの奥が寝室で、手前が居間。寝室にはベッドを買った。これまで畳に布団を敷いて寝ていたのに比べると寝心地は良くなった気がする。でも場所を占めるから物の置き場に困る。一部屋あたりの広さは流石に少し狭くなったし。その上、ぼっちは寝室にものを持ち込むのをいやがった。正確には寝室の半分、ぼっちが使うベッドの周りにわたしの物を置くと、しれっと隣の部屋やこっちのベッドサイドに移動させられている。

 わたしが文句を言っても、ぼっちはあまりへこたれなくなった。時には虹夏に告げ口されて、虹夏経由で物を溢れさせるなと文句を返される。虹夏はいつだってぼっちの肩ばかり持つ。郁代に愚痴るとなだめられて終わりだ。結局わたしが折れて、しぶしぶ実家に持ち帰ったり売っ払ったり。なけなし空間をやりくりするしかなかった。


 新居に越してから、どうしたってぼっちと顔を合わせる時間は増えた。増えた結果わかったこともある。ぼっちの日が来るのは月に1回より少し多いくらいだってこと。月初めにそうなった時は、月の終わりにもそうなることが多かった。

 収まらない日、家に帰るとキスされることがある。ぼっちはあまりキスしたがらないから、ちょっと珍しい。

 がっつかれるのはあんまり好きじゃない。でも謝りながら求められるのはもっと落ち着かない。イヤなときはイヤだといえばぼっちは引き下がるし、本当にイヤならどちらかが実家に帰ればいいだけだ。わたしだって、ただ義務とか責任とかで求めに応じてるわけじゃないんだし。こっちの都合に付き合ってもらうこともあるんだから、口癖みたいに謝られると困惑する。

 1度、あんまり申し訳無さそうにするものだがら、嫌気が差して中断したことがあった。どこに触るにも何をするにも「ごめんなさい」「すみません」なんて言われてたら流石に気がそがれる。いい加減ダルくなって止めようと言ったら、ぼっちをひどく凹ませてしまった。

 別に、がっかりさせようと思ってたわけじゃない。ただ単純に一言多いから嫌気が差しただけだった。ぼっちのベッドに二人並んで寝転びながら、すぐ横で枕を抱えて沈んでいるぼっちに声を掛ける。

「なんでそんなに謝るの」

「ごめ……あ……その……」

「ゆっくりでいいから」

 涙ぐむぼっちの頭をなでてやる。しばらくグズっていたぼっちがやっと落ち着くまで、時間にしたら10分くらいかかった。

「落ち着いた?」

「……すみません……あっ……」

「いい。聞かせて」

「……あ……その……リョウさん、負担になってないかって、心配で……」

「なにが?」

 聞き返すと、ぼっちは枕に顔を埋めた。肩をふるわせて大きく息を吸う。それからゆらっと顔を上げる。青白い表情のまま息を吐く。落ち込んだ目をこちらにむけてから、たどたどしくしゃべり始める。

「その……わたし、ダメなアルファだから、フェロモンのコントロールもうまくないし、ときどき、今日みたいに不安定になるし、そのたびにリョウさんになぐさめてもらって、ほんとうにうれしいしありがたいんですけど……でも、わたしが……こんなじゃなかったら、きっとリョウさんはもっと自由に生きてたんじゃないか、とか……わたしのせいで窮屈な生活になってないかって……

 とくに今日みたいな日は、すごく不安になって……そのせいで、よけいにリョウさんに迷惑かけてないかって、最近、ときどき考えるんですけど……」

 しばらく、ぼっちの弁明は続いた。さえぎらずに聞いていると、話し声は段々自信なさげに、小さくすぼんでいく。要するに、いかに自分がわたしに釣り合っていない気がするか心配だという話らしかった。

 ぼっちがうつむいて口をつぐんだところで、ため息がこぼれる。ぎゅっと目をつむったぼっちの頭に手を伸ばしてなでてやると、こわごわ目を開けて様子をうかがうようにこちらを見上げてくる。

「ぼっちが情緒不安定じゃなかったことなんてある?」

「え……?」

「丸一日、情緒が安定してて、奇行にも走らなくて、穏やかで楽しくて幸せで満たされて、ようするになんの不満も不安もなかったなんて日。あったことあるの?」

「え、えと……ない、です……」

「うん。知ってる」

 うっすら笑いがこぼれていく。高2の時に出会ってからずっと、ぼっちはこうだった。まあ、多少は世間ずれして落ち着いたところもあるだろう。人前に立てる時間も長くなってはいるだろう。歳も取ったわけだし、多少は周りの目を気にして行動を変えているようなフシだってある。それは、きっとわたしも同じだ。普段あんまり意識はしないけど、たぶんお互いに変化した部分はたくさんある。成長なのか退行なのかわからないけど。

 でも、だからといってぼっちのそういうところが根本的に変わってしまったなんて話があるはずもない。相変わらず人見知りは激しいし、家じゃモンモンとのたうちまわっていることもある。どこへ向かってるのかわからない呪詛みたいな歌詞を書いては、気に入ったのかうっとり眺めてヘラヘラしているときもあり、逆にノートに向かって土下座しているような姿もある。

 たぶん、こういうところは変えようが無いんだろう。それで、わたしはそういうぼっちと同じバンドを続けてこられている。まあ、あの頃は、まさかこんなことをするような関係になるとは思わなかったし、あのわたしが誰かと家賃を折半して生活しているなんて想像もしていなかったけれど、曲がりなりにも二人のルームシェアを続けられているんだから、たぶんイヤじゃないんだろう。

 こぼれた薄ら笑いをどう受け止めたのか、ぼっちが不安そうに目を揺らす。飛び跳ねた髪をつまんで遊びながら、何を考えるでもなく思いついたことを話しかける。

「最初にしたときのこと、覚えてる?」

「え……?」

「前のアパートで。ぼっちが平泳ぎしてたときの」

「うっ……すみません……」

「あの時だってわたしから誘ったでしょ」

「……はい」

「イヤじゃないからしてるんだし、イヤだったらちゃんと言うから」

「……はい」

 ぼっちが安心したように表情をゆるめる。ちょっと意地悪な気分になって、両手で頰をつまんでやる。キョトンとしたところに顔を近づけて、じっと目をのぞき込む。

「それに、ちゃんと気持ちいいし」

「そ、そうですか?」

「うん。ぼっちは?」

「えと……気持ちいいです……」

「オナホよりも?」

「ええ……?」

「わたしより、オナホの方が良い?」

 らしくない気もした。ただ、なんとなく、そんなことを言ってやりたい気分だった。ぼっちは目を回していたけど、しばらくしてから一度目をつむった。もう一度目を開けると、ちょっといじけたように瞳を光らせながら、「リョウさんがいいです」と答えた。

救急車

 春先のまだ寒かった日。バイト上がりにスマホを見たら、虹夏から鬼電がかかってきていた。立て続けの不在着信が並ぶ画面を見ていると、気が滅入りそうだった。

 外に出て駅に足を向けながらしぶしぶ電話をかけ直す。1コールもそこそこにつながった。

『ぼっちちゃん、大丈夫??』

「え、なに?」

『だから、ぼっちちゃん……』

 虹夏が言葉を飲み込んだ。ばかでかいため息が聞こえる。さすがに、なんの理由もなくいきなりため息をつかれるのは心外だ。

『……リョウ、いまどこ?』

「バイトあがりだけど……」

『じゃあしかたないか……』

「なんなの?」

『ぼっちちゃん、今日うちに来る日だったでしょ』

「うん」

『すごい顔色悪かったから帰ってもらったの』

「え?」

『妙に聞き分けが悪くって、大丈夫だ、大丈夫だってずっとゴネてたんだけど、いままでに見たこと無いくらい、なんていうんだろ、ほてってるっていうかどす黒いっていうか、とにかく体調悪そうだったから。病院行く? って聞いたんだけど、それもイヤだってグズるからさ。お姉ちゃんがタクシー呼んで、やっと帰ってもらったんだけど。朝は元気だったの?』

「ええ……起こさなかったからわからない」

『なんだかなあ』

 また大きなため息。説明を飲み込むのにちょうどいい間になった。

「いつ?」

『はい?』

「いつ帰ったの」

『えっと……たぶん、2時間くらい……お姉ちゃーん!!』

 電話の向こうで、虹夏が店長に話しかける。短いやり取りがあって、すぐ戻ってくる。

『5時前だって』

「ありがとう」

『うん。早く帰って、様子見てあげて』

「うん」

『様子がわかったら連絡して』

「うん」

 通話を終えて改札をくぐる。ホームに降りながらメッセージを確認してみる。ぼっちとのやりとりは一昨日で止まっていた。


 アパートに戻ると部屋の電気は消えていた。鍵を開けると真っ暗だ。手探りで玄関の電気をつけた。ぼっちのスニーカーは普段と同じ場所に並んでいる。居間の様子にも変化はない。寝室もカーテンを閉め切っている。物音一つ聞こえない。静かな部屋だった。

「ただいま……」

 靴を脱ぎながら、かける声が震えていた。返事はない。荷物を下ろしてそろそろと進む。居間の電気をつけると、ベッドの様子が目に入った。

 ぼっちは背を向けている。掛け布団をぐるぐるに丸めて、両腕で抱きかかえるようにして、小さく身体を丸めていた。その隣に近寄って、ベッドサイドに膝をつく。そっと手を伸ばして背中を軽くたたく。う……っとひとつうなってから、ぼっちがゆっくりと目を見開いた。

「あ……お、おかえりなさい……」

「うん。大丈夫?」

「あ……はい……少し……寝たら、楽になると思うので……」

 ぼっちが物憂げに寝返りを打つ。部屋が暗いから顔色はよくわからない。でも、額に浮いた汗やどこか焦点の合わない瞳。熱に浮かされているのが見て取れる。

「どうしたの」

「すみません……」

「いや……」

「あの……手……」

「手?」

「手、にぎって、もらえ、ませんか……?」

 おずおず、おっかなびっくりといった具合でぼっちがのろのろと手を伸ばしてくる。わたしはため息をこぼして、その手を握ってやった。ぼっちがさみしそうな、うれしそうな、あいまいな笑みを浮かべた。

「すみません……」

「いい。熱、ある?」

「な、7度8分……」

「どこか痛む?」

「い……いえ……」

「気持ち悪い?」

「すこし……」

「袋いる?」

「だ、だいじょぶです……」

「薬は?」

「だいじょうぶです……」

 いくつか尋ねてみても何もいらないと言う。ぼっちはときどき確かめるように手を握り直しながら、ぼそぼそ「だいじょうぶ」と繰り返すだけだった。

 状況がわからない。じれったい。でも無理に何かを飲ませるわけにもいかない。ぼっち本人がいらないって言うんだから、ほんとうに何もいらないんだろう。

 ひとしきりやり取りをしてから、息を整える。ぼっちはぼうっとした表情のまま、じっとわたしを見つめていた。

「……いつから?」

「……昨日の夜あたり、から」

「ええ?」

「ちょっと不安定だったんですけど」

「なんで?」

「すみません……」

 思わず口調が荒くなる。ぼっちが不安そうに目を揺らして伏せた。

 ため息を飲み込んで時計を見る。9時を回っている。コンビニは開いてるけど薬局がどうだったか覚えていない。でももう閉まる頃だろう。早く言ってくれればなにかできたかもしれないのに。

「ごめん……」

「すみません……」

「ううん、いい」

 ぼっちを責めるのは酷だ。いまそんな顔をさせたいわけじゃない。話なんて後ででもできる。いまは、ぼっちを落ち着かせたかった。

 しばらく息を整えていたぼっちが、急に寝返りを打った。手が離れていく。背中をきつく小さく丸めてえずいている。

「だいじょぶ?」

 かすかにうなずいた気がする。話しかければ一応反応はある。でも言葉にならないうめき声をあげるだけだ。寝れば治るなんて言ってたけど、到底寝付けるような状態じゃない。

 背中をさする手が震えていた。かける言葉も思いつかなかった。時計は10時に差し掛かる。タクシーが割増運賃に切り替わる時間だ。ただ、立って歩けるようにも見えない。さすがに一人でぼっちを運ぶのは無理だと思った。2人そろって階段から落ちたら笑えない。

 スマホを見た。真っ暗なままだ。昼はあんなに連絡を押し付けてきたのに。虹夏は肝心なときに何もしない。でもいま呼んだって仕方ない。

 両親の顔が浮かんだ。でももう帰宅してるはずの時間だし、ここから下北につれていくより近い病院があったはずだ。

 ぼっちのうめき声が途切れる度にドキリとする。肩が上がったり下がったり、背中がこわばったり緩んだりするのを見て気を落ち着かせる。このまま、朝まで我慢させるのはかわいそうな気がした。なにより、その横でつきっきりでいて、何もできない自分がじれったかった。かといってここにはなにもない。

 もう一度スマホが目に入る。最後に浮かんだのは、救急車だった。ぼっちの背中をさすってやりながら身を乗り出す。ぎゅっと目をつむるぼっちの耳元に顔を寄せた。

「ねえ……救急車、呼ぼう?」

 口に出してみると名案な気がしてくる。一刻も早く呼ぶべきかもしれない。でもぼっちは答えなかった。ただ、苦しそうに体を揺すっている。

「呼ぶからね?」

 もう一度、声を掛ける。ぼっちがかすかにうなずいたように見えた。

 スマートフォンを重たいと思ったのは初めてかもしれない。手元が震えてロックがうまく解除できない。なんとか電話を立ち上げてキーをタップする。耳に馴染んだコール音に、息を詰めていたことを知った。口の中が乾いていた。

『緊急電話119、火事ですか、救急ですか』

「あ、の……きゅ、救急、で……」

『住所はどちらですか』

「世田谷区、給田、3丁目――」

『どうしましたか?』

「え、と……同居人が、発熱して、気持ちが悪いって、動けなくて」

 聞かれることに答えていく。眼の前でうなっているぼっちから目が離せなかった。時々、電話の向こうの質問をぼっちにトスした。反応はあいまいで、うなずいているのかただ身体を揺すっているのかもわからない。

 通話を終えると、静かな部屋にうめき声がこだました。ぼっちはときどき歯を食いしばっているようだった。背中をさすってやると、少し楽になるのか大きく深呼吸をする。それでもときどき身体をこわばらせて、低い声でうめいている。

 居ても立ってもいられない。立ち上がって外に出る。廊下から表の通りを見た。まばらな通行人の姿があるだけで、車の姿形はもちろん、サイレンの音だって聞こえない。原付きが1台足元を通っただけだった。

 遠ざかるエンジンから目を背けて部屋に戻る。一瞬血の気が引いた。ぼっちがベッドから落ちて丸まっているのが見える。

 急いで駆け寄ると、苦しそうに息を吐きながらもがいている。

「ぼっち、ねえ、ぼっち?」

「あ……う……リョ……さん……?」

 片目を開けた。隣にしゃがむ。手を伸ばしてぼっちの身体を抱え起こそうとした。下から伸びてきたぼっちの腕が、わたしの首に回される。そのまま抱きついてくれれば抱き起こせそうだった。ベッドの上に戻すくらいなら、一人でもなんとかできるだろう。

 抱えようと伸ばした手をつかまれる。ぼっちが思わぬ動きをした。ぐるっと首に回された腕に力がこもる。バランスを崩す。あっけなく床に転がされてしまう。

「いった――」

「リョ、リョウ……さん……」

 鈍い衝撃に顔をしかめていると、ぼっちが荒い息を吐きながら抱きしめてくる。両腕でわたしの身体を力いっぱいに抱きしめてくる。鈍い痛みで身体がきしむ。息が苦しい。とっさに背中を叩く。

「痛い! 痛いって!」

「ご、めん、なさい……」

 腕の力がほんの少し緩んだ気がする。でも相変わらずだ。こんな馬鹿力で抱きつかれたのは初めてだった。

 顔をしかめながら暗闇に目を凝らす。ぼっちがきつく目をつむったまま、わたしの胸に顔を擦り付けてくる。

「リョ……さん……」

「な、なに……?」

「ひとりに……しないで……どこにもいかないで……」

 暗い部屋にはなをすすりあげる音がこだまする。ゆっくりと息を整えながら、背中をさすってやる。

「大丈夫、だいじょうぶだから」

「リョ……さん……」

 なるべく抑えた声で話しかける。やさしく背中をたたいたり、さすったり。しばらくじっとしていると、ぼっちの腕が緩む。それでもしばらく涙をこぼしている。

 サイレンの音が聞こえてきた時、またぼっちの腕に力が入った。きつくきつく抱かれて息が詰まりそうになる。

 息苦しさに耐えながら、ぼっちの背中をゆっくりとさすってやる。ぼっちが抱きしめてくるだけの強さと同じ強さで抱きしめ返してやりたいと思った。でも到底叶わない。ただ背中に手を回して、さすってやることしかできなかった。

 サイレンの音が止むと、ぼっちは大きく息を吐いた。それと同時に両腕から力が抜けていく。ずり落ちそうになるぼっちを支えて顔を覗き込む。

「ぼっち?」

「あ……はい……?」

「来た。呼んでくる。大丈夫?」

「……はい」

「すぐ戻るから」

「ごめ……なさい……」

「いい。楽にしてて」

 力の抜けたぼっちを、もう一度床に寝かせる。額に手を当てると、涙に染まる目を開けた。

「だいじょうぶ?」

「はい……」

「すく戻るからね?」

「はい……」

 ぼっちは深呼吸をしながら目を閉じる。もうひとつだけ頭をなでた。

 踵を返す。玄関に急ぐ。サンダルに足をいれる時間も、ドアノブを回す時間も、なにもかもがもどかしかった。ドアを開けた瞬間、路上のランプが目に飛び込んでくる。手すりに身を乗り出して手を振ると、道に広がって見上げていた隊員に見つけてもらえた。

 隊員を待ち受けて部屋に戻る。ぼっちはまだ同じ場所に寝ていた。音を聞きつけたらしい。うっすら目を開けて息を止めている。

 先頭にいた救急隊員が、スタスタと近づいてしゃがみ込む。声をかけ始めた。その様子をこわごわ見つめていたぼっちも、たどたどしい声で話し始める。

「お名前は?」

「ご……後藤……」

「後藤さん?」

「はい……」

「下のお名前は?」

「あ……ひ、ひとり、で……」

「後藤ひとりさん?」

「は……い……」

「どう書きますか?」

「え……?」

「漢字――」

「あ……う、ひらがなで……」

「ひらがなでひとりさん?」

「はい……」

 ぼっちのまわりがにぎやかになる。テキパキと機材を広げている隊員たちを見つめていたら、入口にいた別人に話しかけられた。

「ご家族の方ですか?」

「彼女です」

「お名前は?」

「山田リョウ」

 いくつか質問されて答える。救急車を呼ぶまでに話したことと大して変わらない。ぼっちの状態は全然よくなってない。せめて急激に悪くなっていないだけマシなのかもしれないけれど。

 そのうち、救急隊員たちが立ち上がってぼっちをストレッチャーに寝かしつけた。狭い階段を器用に降りていく。道路に出てから、さっき名前を聞かれた隊員が尋ねてくる。

「同乗しますか?」

「はい」

「お荷物は?」

 指摘されて、手ぶらのままだったことに気づく。急いで部屋に戻ってそこにあるもので用意を整えた。バイトから帰ってきてずっとつきっきりだったから、手間もかからなかった。

 救急車に乗ってから動き出すまでの間に、ぼっちがわたしの名前を呼んだ。側に行くとぼっちはじっとこちらを見つめてきた。その手がさみしそうに開いている。わたしは黙ってにぎりしめた。

 病院に到着する。降ろされる前に、ぼっちは頼りなさそうにわたしを見つめた。でも中まで着いていくわけに行かない。せめて最後に強く手をにぎってやった。

 ぼっちと別れてから、周りの指示にしたがって受付を済ませる。外来から待合に向かう間、院内はウソのように静かだった。

 待合に着いてから後藤家とのライングループを開いて手短に状況を伝える。すぐぼっちの両親から反応があった。場所を伝えると、今から来るという。ギリギリ終電があるらしい。

 知り合いと連絡が付くと、いくらか気持ちに余裕ができた。かといって何をする気力もわかない。ソファに腰掛けて壁に寄りかかる。

 ウトウトしていたらしい。声をかけられて目を開けると、看護師が顔をのぞき込んでいた。

「後藤さんのお付き添いの方ですかー?」

「は、はい」

「えーと……」

「山田です」

「ああ、そう。山田さん。ご家族の方、後藤さんのご家族の方と連絡取れますか?」

「はい」

「お迎えに来ていただきたいんですけど」

「えっと、たぶんあと1時間くらいで来るくらいだと……」

「そうですか。ありがとうございます」

「いえ……」

「表の待合にご移動していただけますか」

「はい」

 看護師に促されて立ち上がる。ちらっと処置室の方を見たけど、中の様子まではわからない。

「山田さん?」

「あの……ひとりは……?」

「少し落ち着かれたようですが、いま検査中ですからね。結果が出たらお知らせしますから」

「はい」

「じゃあ、向こうに移動しましょうね」

「はい」

 表情は穏やかでにこやかだけど、どこか有無を言わせない感じの威圧感がある。見た目は違うけど、態度がオブラートに包んだ虹夏みたいだった。そういえば虹夏には連絡していなかった。向こうからも連絡が来てないのは意外かもしれない。もしかしたら店長かだれかが止めてるのかも。救急車を呼んだなんて言ったらすぐ飛んでくるかもしれない。いま来られたって困るし、落ち着くまでは黙っておこうと思った。

 来た道を戻りながら歩いていると、虹夏みたいな看護師がやわらかな口調で尋ねてきた。

「山田さんは、ご体調に変化はありませんか」

「え?全然」

「ベータの方?」

「はい」

「そうでしたか」

 聞き返そうとしたところで目的地に着いてしまう。入り口から見えるあたりに案内されると、看護師はにこやかな表情で去って行った。


 ぼっちの両親たちが迎えに来てくれて、1番助かったのは間違いなく金だ。なにせ買い物をした後で給料日前だったから、お互いに手持ちがない。二人の財布をひっくり返しても、帰りは途中でタクシーを降りなくちゃいけないところだった。

 一旦うちに立ち寄った後、朝を待ってぼっちは両親と一緒に実家に帰った。

 そうしたほうがいいと背中を押したのはわたしだ。しばらくバイトを詰め込んでいたから急に休むわけにもいかなかったし、これ以上何かあってもわたしにできることはない。

 ぼっちは、わたしが実家に帰ったほうがいいと言い出すとは想像もしてなかったらしい。少し動揺した顔を上げた。

「リョウさん……?」

「うん」

「ごめんなさい……」

 消え入りそうな声でつぶやくぼっちの手を、とっさに握りしめた。顔を上げさせる。顔が真っ青だ。わたしは小さく、でもはっきりと首を振った。

「違う。謝ることじゃない」

「え……と……」

「落ち着くまで実家にいた方がいいと思うから。わたし、しばらくバイト詰め込んじゃってて、一緒にいられないし」

「……リョウさん?」

「待ってる」

 わたしに言えることはそれくらいだった。結局、今回のことだってわたしにはどうしようもない。つがいのいないアルファを安定させる方法は、ベータのわたしには基本的にない。診察室で普段からきちんと病院に行けと言われたらしいから、その付き添いくらいならできるかもしれないけど。でも、そこまでだ。

 お母さんやお父さんとも話をして、ぼっちは最終的に、実家に帰ることを選択した。とはいっても、せいぜい数日の話だ。大げさにするようなことじゃない。

 わたしが考えていたのは、それよりも、その後のことだった。

コンドーム

 結束バンドに今回の騒動を伝えたのは、ぼっちだった。郁代は驚きと心配を表明してお見舞いのメッセージを送っただけだったけど、虹夏はヤバかった。すぐぼっちに電話をかけて、次にわたしのところに電話がかかってきた。それも繰り返し通話をしたがって、とうとう店長に強めに叱られたらしい。怒ったり泣いたりして手がつけられなかった。たぶん、直前に具合の悪かったぼっちを追い返した責任を感じているんだろう。ぼっちに対してはやたらと過保護なのは、ついぞ変わらない、虹夏の最大の欠点だ。

 ぼっちが療養を終えて戻ってきてすぐ、虹夏たちがお見舞いに来た。郁代がお見舞いの品だと言って置いていったハーバリウムのビンは、ぼっちのベッドサイドにぽつんと突っ立っている。

 ビンに添えられたメッセージカードには、小さな文字でびっしりと能書きが並んでいる。元気になれそうな花を詰め込んだと言う割には、見た目は郁代らしくない。普段の弾けるようなきらぎらしさは控えめ。それでもひとつひとつの花にはちゃんと意味があって選んだのだという言い訳みたいなコメントが詰め込まれている。

 ぼっちは花そもそのよりもメッセージカードのほうを気に入ったらしく、大事そうに財布にしまい込んで時々ためつすがめつしている。文章をどのくらい理解しているのかはわからない。眺めてヘラヘラ笑っているんだからいい気なものだった。

 病院で医者から言われた通りに、ぼっちは渋谷のクリニックを探して通院を始めた。フェロモンのコントロールのトレーニングとか、薬とかをもらいに。最初は毎回絶望的な表情で覚悟を決めてから出征していたのが、半年くらいでなじんできたらしく、ときどき愚痴をこぼしつつもスタスタと出かけるようになった。

 わたしたちの生活は一見もとに戻った。ぼっちは時々不安定になるけど、あんなに苦しそうにしていることはもうない。それでも多少奇行が目立ったり、衝動的にわたしに抱きついてくることはあるけれど。

 もしかしたら、通院を続けていけば、だんだんぼっちの具合も落ち着いて、なんの問題もなく、もとの生活に戻るのかもしれなかった。もうあんな騒動も起こらずに、平和に暮らしていけるのかもしれなかった。

 前だったら、そんな疑問や不安に立ち止まることはなかっただろう。


 夏が終わるころ、2人でちょっといい店を探して飲みに行った。なんとなくそんな気分だった。

 家に帰ってから、いつもと同じようにベッドに入る。準備が整って、ぼっちがコンドームに手を伸ばす。

 わたしがその手をさえぎると、ぼっちはおびえるように肩をすくめた。

「リョウさん……?」

「つけないで」

「は、え?」

「生がいい」

「え……?」

 ぼっちの目が泳ぐ。わたしが言ったことの意味を理解するのに、数秒の間が必要だった。

 それから、ぼっちは焦ったようにしゃべり始める。

「な、何言ってるんですか? ピル飲んでるからって言ってもだめですよ! わたしはアルファなんだから」

「うん」

「リョウさんはベータですし、なにかあったら困るじゃないですか」

「知ってる」

「えっ……と……」

 ぼっちは困惑した表情を浮かべている。見つめられて、見つめ返す。

 ぼっちは喉を鳴らして袋を取ると、封を開けた。中身を取り出そうとしている手首を抑えると、ギョっとしたようにひとつ震えて身を固くする。

「リョ、リョウさん……?」

「つけないでしたい」

「だ、だから……!」

 焦りのこもった声を、ぼっちは飲み込んだ。はっきり2回首を横に振る。

「つけてするか、つけないでしないかの二択です」

「つけないでしたい」

「急に……なんで、ですか?」

「……救急車、乗りたくないし」

 われながら、可愛くない答え方だと思った。でもこれまでだってずっとこういう言い方しかしてこなかったから、とっさに言えたのはそれくらいだった。

 ぼっちが大きなため息をこぼして身を起こす。布団の上に正座をして、困ったようにわたしを見つめてくる。わたしも身体を起こした。これは、ずっと考えてきたことだった。

「ぼっちは、いやなの?」

「な、なにがですか?」

「わたしと……」

 いいよどむ。スラッとは出ていかない。やっぱり、少しだけ怖くもなる。

 でも、これはわたしの意志だった。口に出すのは初めてだけど、わたしなりに考えてたどり着いた結論だった。

「わたしと、つがいになるの」

「いやじゃないです」

「なら……」

「でも、そんなにいいものじゃないですよ。オメガのことはわからないけど、不便な身体ですし。いまのお医者さんにも助けてもらってますし、これ以上リョウさんに迷惑かけるわけにも……」

「迷惑じゃない」

「……え?」

「わたしがしたいんだけど」

「えっと……?」

「わたしはなりたい」

「……オ、オメガに……?」

「ううん」

「ええ……?」

「つがいになりたい」

 言葉にしてみると、なんでもないことのような気がしてくる。でも、思いつきなんかじゃない。いつもいつも気分で動いてるわたしだけど、これはきちんと考えて出した結論だった。

 ぼっちがしょんぼりとうつむく。わたしは小さな声で付け足した。

「……ぼっちがイヤなら諦めるけど」

 ぼっちはゆっくりと息を吸って、大きくはいた。ゆったりと首を振ってから、じっとわたしの目を見つめてくる。

「リョウさんのことだから……もっと、きちんと考える時間をください」

ペアリング

 ぼっちが三十になる誕生日。気まぐれでペアリングをねだった。ぼっちは目を丸くしてしばらく固まってから、ぼそぼそと聞き返してきた。

「ペアリング……?」

「うん」

「え、と、ペアリングって、どういうやつですか?」

「いや、指輪だけど」

「ペアリングって、あのペアリングですか?」

「どの?」

「えっと、お揃いで指につける輪っかみたいなやつ……?」

「うん」

「ええ……?」

 ぼっちは顔をひきつらせながら首を傾げた。さすがにその反応は心外というか傷つく。不満を視線に込めてじっと見つめていたら、ぼっちは表情を変えないで心底意外そうに尋ねてくる。

「急に、どうしたんですか」

「イヤなの?」

「え、ええと……」

 眼を泳がせている。しばらく黙って見つめてやる。イヤならイヤだと言ってくれたらいい。ほんの気まぐれで思いついただけなんだから。そんなに深刻に迷われると、むしろ落ち着きが悪い。

 しばらく、ウロウロとあちこちを眺めた末、ぼっちはゆっくりと息を吸った。

「その……リョウさんが、そういうの欲しがると思ってなくて……」

「え?」

「いままでだって、プレゼントのやりとりはしましたけど、おそろいのアクセサリーって避けてたじゃないですか。わたしがあんまり似合わないから申し訳ないんですけど……リョウさんみたいにカッコよかったらもっと似合うのに……それに、ペアリングって、その……あ、どの指につけるつもりですか? やっぱり親指とか……?」

 ぼっちがちょっとふざけたいような雰囲気を作ろうとする。わたしが黙って両手を差し出すと、目を丸くして言葉に詰まっている。

「リョウ、さん……?」

「どっちがいい?」

「どっち……って……?」

「右と左。どっちがいい?」

 ぼっちの目が右往左往する。右手、左手、わたしの顔を順番に見つめている。

 すこし迷ってから、ぼっちが右手を動かす。中途半端に上げたところで動きを止めた。それから左手を挙げて、やっぱり変な高さで固まっている。両手を挙げてわたしの手を見比べていたぼっちが、怖じ気づいたように顔を上げた。じっと見つめ返したまま、左手を伸ばして左手を握りしめると、ぼっちが肩をすくめて固唾をのむ。

「リョウさん……?」

「……欲しくなったらダメなの?」

 つまんない言い方だと思った。でもそれ以上の言葉を言うのは、まだ早かった。

 ぼっちが勢いよく首を振る。

「ダメじゃないです」


 ささやかな誕生パーティをやろうと言って4人で集まった時、最初に気づいたのは郁代だった。先に来た虹夏にどやしつけられながら片付けをしていたところに、途中で買い出しをしてくれた郁代が到着する。

 玄関に迎えに行ったぼっちが、素っ頓狂な声を上げた。ギョッとして振り返ると、中に入ったばかりの郁代が、靴も脱がないまま突っ立って口元を押さえながらボロボロ泣き出している。

「え……き、喜多ちゃん……えっ……??」

「ひ、ひとり、ちゃん……それ……」

「えっ……どれ……なにかついてますか?」

「ひとり、ちゃん……よ、よかった……よかったねえ……」

「な、なに……?」

「リョ……リョウ先輩がっ……せ、誠実な……ひとで……よ、よかったねえ……」

「ええ……? あ、もしかして、これ……?」

「う、うん……おめでとう……よか……ったね……」

ヒート編

 ある朝、目が覚めたとき。こぼれた息が信じられないほど熱かった。胸がつかえて息がうまく吸えなかった。身体の芯から絶えず熱が湧き出るように暑かった。顔が火照って頭が重たかった。そのわりに、意識は妙にはっきりしていた。

 直感的に、これがそうだと理解できた。寝返りを打つ。隣のベッドはものぬけ殻だ。それでも不思議と主の居場所がわかる。暗い部屋の向こうにその姿を探す。ぼっちが窓際に立っている。両手を背中に回していた。何かに捕まっているみたいだ。大きくあえぎながら、じっとわたしを見つめている。つっかえるような不自然な深呼吸を繰り返しながら、目を大きく見開いてこちらをじっと見つめていた。

「リョ……さん……あ、の……」

 ぼっちの声が聞こえる。重たい毛布をなんとかはねのけ、ふらつく身体を手で支えながら起き上がる。

 近づきたかった。抱きしめたかった。抱きしめてほしかった。距離がもどかしかった。

 うまく力が入らない。はうようにして近づく。ぼっちは怯えるように、壁に張り付いている。でも、その視線をそらしたりはしない。じっと見つめてくる。その瞳は、怖がるふりをしている。でもじっとりと湿った熱を帯びているのも事実だった。それは、きっとわたしも同じだ。なんとかベッドを越えて抱きつく。ぼっちのにおいを強く感じる。脚の力が抜けそうだった。首に腕を回すのが精一杯だ。

「リョウ、さん……?」

「ねえ……」

「あ……だ、だいじょぶ……?」

「いい、から……」

 身体を寄せる。すりつけるようにして。ぼっちの手が、そろそろと出てくる。支えてもらえないと立っていられない。早くしてほしい。じっと顔をのぞきこむ。ぼっちがつばを飲む。

 どちらともなく舌を出した。絡み合わせながら、さらに身体を近寄せる。ぼっちの動きに余裕がなくなってくる。こっちも同じだ。とにかくもどかしい。息苦しい。早く楽になりたい。してほしい。

 息が続かなくなったんだろう。ぼっちが顔を離そうとする。間に挟まる風のそよぎさえうっとうしい。腕に体重をかけると、ぼっちがよろけた。そのままベッドにダイブする。

 暗い部屋の中、鼻の先がかすめるような距離で見つめ合う。ぼっちが、2〜3度言葉を飲み込む。間があってから、ようやくそれが出てくる。

「リョ、さん……後、ごめんなさい……がまん、てきそうになくて……」

「うん……」

「あの……いいですか……?」

「うん……いい、から、早くして……」

 1度腕を離す。ぼっちがゆらっと身を起こして服に手をかけた。

 もう何度経験したはずの時間が、いまはおぼつかない。初体験のときよりずっと。これから起こることをお互いに理解している。緊張もある。でも、それよりも期待や欲求のほうが貼るかに大きかった。

 服を脱いでから、ぼっちはぎこちなく触ってきた。指の感触を敏感に感じた。挿入後も、いつもよりずっと近く熱く感じる。なんどか抜き差ししてから、ぼっちはわたしをうつ伏せに寝かせた。

 首筋を這う舌の動きがもどかしかった。うまく息が継げない。苦しい。身体が強ばるのを感じる。

 その牙が皮膚を貫いたとき、身体の中に溜まっていた熱が弾けたようだった。これまでに味わったことのない奇妙な感覚。深いプールの中に飛び込んで、一気に浮かび上がるような奇妙な感覚だった。エレベーターが一気に百階くらい引き上げられたらこうなるかもしれない。それと同時に、ぼっちのにおいを近くに感じる。その中から深い安心が湧き出してくる。全身が安心に包まれる。そのまま、徐々に手足の力が抜けていく。

 やがてぐったり脱力するのと同時に、わたしは意識を手放していた。


 目が覚めたとき、心配そうに覗き込んでいた虹夏と目が合った。瞬きをしていると、額に手を当てながら、安堵の色を浮かべている。

「おはよう。大丈夫?」

 頭がうまく回らない。まだ眠気がひどい。でもこの状況がしっくりこないことだけはわかる。なぜだろう。そもそもここはわたしの家だ。ぼっちならわかる。昨日だって、バイトから帰って来て、来週のスケジュールの話をしながら弁当をつついて、少し練習をして寝た。今日はお互いにバイトがあるとかなんとか、話をした記憶がある。

 そこまでたどって、やっと直前のできごとを思い出した。イキすぎて気絶したんだった。そうだとしたら、この状況はたしかにおかしい。どうして虹夏がわたしを介抱しているんだろう。

「え……? にじか……?」

 声がガラガラだ。虹夏は隣のベットに腰を下ろすと、中途半端な笑みを浮かべた。

「ひっどい声。水飲みな?」

「う、うん……」

 差し出されるペットボトルを受け取ろうとする。しかし身体中が痛い。バキバキだ。腕が重たくて、たかだか500ミリのボトルを受け取るのがやっとだった。

 フタを開けるのに手こずっていると、虹夏が代わりに開けてくれる。わたしの苦戦苦闘がウソのようにからりと開く。さすがはあの虹夏だ。ありがたくボトルを受け取って水を飲む。常温の水がかえって心地いい。一息に半分も飲み下すと、いくらか頭が冴えてくる。

 息を整えてから振り返る。ベッドに腰掛けたまま、つまらなさそうに眺めていた虹夏に声を掛ける。

「虹夏、どうしたの?」

「こっちが聞きたいよ。急に電話きてさ。『リョウさんが死んじゃった〜!!』なんて言い出すもんだからビックリしたんだけど。よく聞き出したらこんななんだから」

 虹夏の声は、あきれているようにも、からかっているようにも聞こえた。なるほど、困ったぼっちに呼び出されたのか。それにしてもムードがない。いや、初めてのヒートで腹上死なんて縁起でもないし、こんなことは初めてだったからよっぽど慌てたんだろう。幸い死んじゃいないけど、もしそうなってたら、むしろロックなのかもしれない。もっとも、挿れる側なのはぼっちだから、わたしの場合は「腹下死」だろうか。

 くだらないことを考えられるくらい余裕がでてきた。頭だけ上げて周りを見回す。虹夏が察してくれたらしい。少し身を引いて振り返る。居間が見えた。中腰に立ち上がった郁代が、人差し指を立てて口に当てている。その足元で、ぼっちが身体を丸めていた。

「さっきまで、ずっと泣いてたんだけど、疲れて寝ちゃったみたい」

「そう……」

「起こす?」

「いや、いい」

 こっちがこんなに疲労してるんだから、向こうも似たりよったりだろう。まあ、疲労の原因は違うかもしれないけど。

 それより。わたしは、わたしが寝ていた間のことを知りたかった。

「泣いてたって?」

「そうだよ。あれでリョウがよく起きないもんだって。ベッドサイドに突っ伏してさ。ほんとに泣き止まなかったんだから。むしろ、ぼっちちゃんが死ぬんじゃないかと思って心配になるくらい」

「で?」

「とにかく落ち着かせて、服着てもらってさ。それでもずっとグズグズしてるから、喜多ちゃんにあやしててもらったの」

「ふーん……」

「なにが『ふーん』だか! リョウのせいなんだかんね? あとでちゃんと謝っときなよ」

 小声でたしなめてから、虹夏はじっとわたしの顔を見て言った。

「首のそれ、痛くない?」

「首?」

「ぼっちちゃんの歯型」

 指さされて左の首筋に手を当てる。指先に段差を感じる。痛みは特にない。かゆくもない。かまれた瞬間にすごい波が来たから、それより後のことは全然覚えていない。

 付いてしまえばただこんなものなのか。少し拍子抜けする。虹夏は不思議そうに首を傾げていた。

「一応、消毒はしといたけど。病院とか行かなくて平気?」

「たぶん……?」

「しっかりしてよ。あたしたちにはわかんないんだから」

「ぼっちが起きたら相談する……」

「うん、そうして」

 とにかく身体がだるかった。毛布を引き上げる。ふと中を覗き込むと、きちんとパジャマを着ていた。ご丁寧に下着も着けてあるらしい、襟首をつまんで眺めていると、虹夏が大きなため息をこぼした。

「勝手に拭いて、勝手に着せたから」

「え?」

「悪いと思ったけど、すっぽんぽんで放置しとくわけにもいかなかったからさあ」

 ため息には、明らかにバカにするような色が混じっていた。ひとこと言い返そうと思った。こっちだってそうなりたくてなったわけじゃない。初めてのことだったし、お互いに加減なんてわからないんだし。

 でもダルくて億劫だ。せめてもの抗議を視線に込めてにらむ。あんまり効き目がないみたいだ。虹夏は手をついて立ち上がる。ベッドサイドにしゃがんで、かるく額を小突いてくる。

「……なに?」

「別に。元気そうだけど、無理しないでよ。あたし、そろそろ帰んなきゃだけど。なんかあったらすく呼ぶこと。いい?」

「う、うん……」

「まったく。この歳で介護の真似事なんて。もう二度とイヤだからね」

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